悲しみという原質

 I君のエッセイからの引用。---平吉氏の「交響変奏曲」が初演された直後、この作品への評価は必ずしも良いものではなく、彼はそのことをひどく悔しがり、また憤慨していた。私も某新聞紙上に高名な批評家Y氏が寄せた記事を読んだが、それはまことに空疎で貧しい中味であったように記憶している。おそらくは、事前に総譜に目を通すなどの下準備などせずに、ただ一回の演奏を聴取しただけの印象批評といった域を出るものではなく、新鮮味も問題提起もない、まさに通り一遍の凡庸なものであった。「交響変奏曲」という曲名からして創意に古臭さを感じる、といったようなことまで書かれていたことを思い出す。たったいま書き下ろされたばかりの当代気鋭の作家の新作初演の批評を書くのであれば、事前の総譜の確認はいうに及ばず、作家へのインタビュー、さらに、作家の日頃の営為や思想などについての論考に及ぶくらいの気迫で当該作品に接近した上で、評者の率直な論評を真摯に開陳するものでなければ、誠実な批評とは言えまい。平吉氏の憤慨もそのあたりにあるのだと思う。「変奏曲」という表現方法、あるいは形式を、何故に古臭いと感じるのだろうか。これ程、作家の真実を語りうる表現形式はないのに!---
 J・S・バッハを経て、モーツアルトベートーヴェンを中心とする古典主義の時代に書かれた多くの変奏曲の名作が、常に主題の姿形を見失うことのない位置で書かれており、冒頭に提示される主題と、曲中の各変奏とは有機的・客観的な関係に置かれている。両者の相関性を比較的容易に聴取できるという点で、これらの時代の変奏曲は「客観的変奏」とも呼ばれている。しかし歴史の進展とともに、芸術の分野においても新たな価値観と秩序が生まれ、その思想と表現に大きな変化が生まれる。変奏曲においても、「客観的変奏」に対する「主観的変奏」という概念が、新たな地平を拓いてゆくことになる。
 「主題」に《原質としての悲しみ》といった無形の思惟を据えることによって、あるいは形而上的な知覚そのものを設定することによって、「客観的な姿形を有するもののみが変奏曲の主題である」とするきわめて頑固で保守的な目線には、平吉作品(「交響変奏曲」)の主題は理解不可能なものとなる。
 以下はI君の文章からの引用。---言うまでもないが、変奏曲の作曲において、作曲家はたったひとつの主題に基本想念を潜ませ、それを、先々の変奏において、あらゆる相克、つまり、生死、愛憎、聖俗、知情、静動、明暗などの葛藤を描いて見せるのであり、その想到とメチエが問われるのである。音楽表現の永劫不滅の可能性は変奏曲とフーガにのみ存する、と語ったのは誰であったか。---
 いろいろ書き連ねていても、I君の音楽理論を正しく理解するのはほとんど不可能なので、まことに幼稚な手法ながら、手元のスマホの動画で平吉氏の作曲した子供のためのピアノ曲集《虹のリズム》から「真夜中の火祭り」を聞いてみることにする。子供たちがピアノ演奏をするのを好む曲だけあって、主旋律は分かり易く美しい。それを巡って様々な変奏曲が戯れるように曲を奏でている仕組みはなんとなく分かるような気がする。弾く者の表現力によって、曲の持つ表情がすごく違って見えるのも興味深い。(以下続く)