Entries from 2013-01-01 to 1 year

H.v.ホーフマンスタールとR.M.リルケのエクリチュールをめぐって(続き)

3.リルケの『マルテの手記』ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)は、1875年12月4日にプラハで生まれた。父ヨーゼフ・リルケは、陸軍士官を目指したが、栄達がかなわず、10年に及ぶ軍隊勤務から身を引いて鉄道会社に勤めた失意の人であった。し…

H.v.ホーフマンスタールとR.M.リルケのエクリチュールをめぐって

1.エクリチュールとはなにか。 エクリチュールとは、言語芸術を成立させる核としての文章の「書き方」を意味する。歴史が順次変化するにともなって、エクリチュールも変遷してゆく。とりわけフローベールとともに、言葉は作家の歴史的・社会的地平の上に現…

チロルの思い出・・・続き

イタリアとオーストリア国境に広がるドロミテ山塊で9月7日に世界一過酷と言われる「ドロミテ鉄人レース」が開かれた。標高2000m級の山を一気に駆け上がるマウンテンラン、山から山へと滑空するパラグライダー、激流を下るカヤック、そして険しい山道を走…

チロルの思い出 ・・・続き

アッヘン湖とツィラータールへの入り口であるイェンバッハ(Jenbach)は、インスブルックから列車で東へ20分ほど離れたところにある小さな町である。アッヘン湖はイェンバッハの北、海抜931メートルの山中にあるチロルで最も高い所にある湖である。イェ…

チロルの思い出(写真集とともに)-----続く

アルプバッハ(Alpbach)の村は、チロルの伝統風俗が残っていて、昔のままの黒い木造家屋の民家が立ち並び、夏にはベランダが美しい花で飾りたてられ、オーストリアで一番美しい村に選ばれている。国際交流の村としても知られ、毎年夏にはヨーロッパ中の教授…

小旅行

酷暑の中、甲府方面へ旅行をした。甲府市内の日中の最高気温は、37度以上に達した。 山梨県立美術館で開催中のオランダ・ハーグ派展(バルビゾンへの憧れ、ゴッホの原点)を 観た。 わずかな涼を求めて、昇仙峡まで足を延ばし、「影絵の森美術館」(常設)…

その国

「その国」 私が50年ほど前に奉職していた大学の同窓会から、ご案内の書状をいただいた。その同窓会は、「湘春の集い」とも称しているようである。毎年ご案内をいただきながら、まだ一度も出席したことはない。1964年4月から1967年3月まで当大学の教員として…

チェコ・アヴァンギャルド(続き)

2 ボフミル・フラバル著『あまりにも騒がしい孤独』を読んで チェコスロバキアでは、共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクを中心とした改革運動「プラハの春」が、ソビエト連邦を中心としたワルシャワ条約機構の軍事介入で潰され1969年以降、グス…

チェコ・アヴァンギャルド

ボフミル・フラバル著『あまりにも騒がしい孤独』を読んで チェコの批評家ヨゼフ・クロウトヴォルによれば、さまざまな異質なものがひしめく中欧の窮屈で圧迫された空間に住む中欧人は、「ありふれた不条理の感覚」を持ち、そのメンタリティーの特徴は、メラ…

黒田夏子著『abさんご』を読む----イメージの修辞学

久しぶりのブログ執筆である。どのようなことを書くのか、自分でも分からないままに筆をとった。書きながら考えるといえば、恰好はいいが、無論そんな準備はない。しかし書きたい気持ちが、抑えようもなく心に湧き起こってくる。 史上最高齢の75歳の芥川賞、…

≪ZürichーStuttgartーBietigheim/Bissingen≫

1984年9月2日(日)晴 Luzern発10時07分、Zürich(Hbf)着10時56分。 列車の待ち時間を利用してZürichの町を見物する。Limmat川沿いに散歩。今日は日曜日のため商店はすべて閉まっている。 Großmünsterの内部をのぞく。 Kunsthaus(市立美術館)…

≪Luzern(ルーツェルン)≫

1984年8月31日(金)晴 Nürnberg Hbfから7時02分発の汽車(Kurswagen)でZürichに向かう。列車はAugsburg, Buchloe, Kaufbeuren, Kemptenを経てAllgäu地方の牧草地がなだらかな起伏をなす酪農地帯をぬけ、11時14分Lindauに着いた。よく晴れてL…

≪Venezia≫

8月23日(木)晴 今日はVeneziaへ向けて出発する日であるが、早目に宿を出、駅へ荷物を預けてPalazzo Pittiへ行く。昨日見れなかったGalleria Palatinaを見るためである。美術館を見たあと Firenze発10時52分の汽車に乗る。 14時31分Venezia(S.L.…

≪Firenze≫

8月22日(水)晴 Palazzo Medici Riccardi(メディチ家の居館)を見る(外観のみ)。Palazzo Veccio (ベッキオ宮)を見た後、ベッキオ橋を渡りPalazzo Pittiまで行き、内部は見ずに外観のみを見て帰る。 夕暮時Arno川の岸辺を散歩するのは実に快い。夕日…

≪Firenze≫

8月21日(火)晴 今日も天気がよく、暑くなりそうである。 宿の部屋は広々としていて、周囲も静かなので、よく眠れた。 午前中はGalleria degli Uffizi(ウフィツィ美術館)を見る。午後はDuomo Santa Maria del Fioreに行き、内陣を見たあと、Kuppelの展…

≪Firenze≫

8月20日(月) ニュルンベルク19時02分発のICでミュンヒェンに向かう。今日はイタリア旅行へ出発の日である。20時45分ミュンヒェン着。駅前の中華レストランで夕食をとる。このレストランは、7月にシンポジウムでミュンヒェンに来たとき以来のな…

≪再びニュルンベルクへ≫

1984年8月19日(日) ベルリン旅行で知り合ったKost夫妻にKaffeetrinkenに招かれる。午後4時Herr Kost が車で迎えに来てくれる。Mögeldorfの北の方角にあるその住居は閑静な住宅街にあって、庭には沢山の果樹が茂っていた。 庭にしつらえたテーブル…

≪ルートヴィヒⅡ世とルキノ・ヴィスコンティ≫

ノイシュヴァンシュタイン城を話題にしたからには、その国王としての評価がどうであれ、ルートヴィヒⅡ世の生涯について一言でも触れるのが礼儀というものであろう。 「狂える王」(狂王)と呼ばれたバイエルン国王ルートヴィヒⅡ世が死んだのは1886年6月13日…

≪Neuschwanstein城へ≫

8月18日(土)晴 7時02分発(Nürnberg Hbf)の汽車でAugsburgへ向かう。一昨日は予定を変更してRomantische Straßeをバスで遊覧したが、今日は天気が良いので、Augsburgでローカル線に乗り換えFüssenに向かった。 二輌連結で座席も二等だけの汽車は、南…

≪Fränkische Schweiz補遺≫

今まで書き続けてきた1984年のニュルンベルク滞在日誌からいったん離れて、ここでは別のテーマについて書く。そのあと、再び滞在日誌に戻ろうと思う。 フレンキッシェ・シュヴァイツ (Fränkische Schweiz) は、「フランケン地方のスイス」という意味で、…

≪Romantische Straße≫

1984年8月16日(木)晴 7時02分Nürnberg発の汽車でAugsburgに向かう。Augsburgに着くまで汽車の窓外は霧がたちこめ見通しが悪かった。天気があまり芳しくないので、Füssenまで行く予定を変更し、バスでRomantische StraßeをWürzburgまで向かうこと…

≪(東・西)ベルリン団体旅行 Ein Angebot der DB-touristik  9. - 12. August 1984 ≫

8月9日(木)曇 いよいよBerlin旅行へ出発の日である。7月中にDBのTouristikが企画した団体旅行に申し込んでおいたのである。 10時04分Nürnberg発。車両の座席はすべて団体旅行に参加した客のために予約され、ほぼ満席に近い状態であった。ほとんど皆…

 ≪ヴュルツブルク散策≫(1984年8月6日)

ニュルンベルク発11時01分のインターシティでヴュルツブルクへ向かう。今日はヴュルツブルクの街を歩き回るつもりだ。 最初にResidenzに向かって歩いた。ヴュルツブルクの駅の北側はブドウ畑になっている。ブドウの木が小高い山の斜面に植えられて、駅前…

 ウィーンへ再度の旅行(1984年7月31日〜8月2日)

7月31日 晴。 16時04分発のインターシティ(Prinz Eugen)でWienに向かう。二度目のウィーン旅行である。北ドイツ地方で雷雨があって他の汽車が遅れ、その影響で予定より約30分遅れてNürnberg Hbfを出発する。しかし途中で遅れを取り戻し、約20分…

≪思い出に残る懐かしい町々と人々(続き)≫

7月24日(火) 薄曇。 ウィーンからの友人Hamada氏とBambergへ向かう。Altes Rathaus, Dom, Neue Residenz, などを見た後、Obere Pfarrkirche, Concordia(Barockpalast), E.T.A.Hoffmann-Hausを見る。二人で瓶入りのRauchbierを飲んで、Wallfahrer氏にもお…

 ミュンヒェン旅行など

1984年7月19日(木)曇。 今日から4泊の予定でミュンヒェンに向かう。ホーフマンスタール協会主催の国際シンポジウムに出席するためである。すでにニュルンベルクの旅行会社を通じて、ミュンヒェン中央駅前のHotel Haberstockを予約しておいたので、…

≪ニュルンベルクあれこれ(続き)≫

7月4日(水) 夕刻Wallfahrerさん宅に小生宛の電話がかかる。驚いたことに、Frl. Okamotoからの電話だった。初めなかなか話が通ぜず困った。彼女がドイツでの電話に慣れていなかったせいもあろう。7月6日にNürnbergを案内することを約束した。彼女は両親と…

 1984年 6月29日〜7月2日(ウィーン旅行の記録)

6月27日(水)快晴。 久しぶりの快晴で、気温も上がった。Uhl夫妻とSchwaigのHallenbadへ出かける。これは毎週の日課となっている。9時半に家を出て、10時近くから11時まで泳ぐ。水泳に来ているのは中年や初老の人々、あるいは高齢者がほとんで人数も少なく…

折々の雑感

7月10日(火)晴。 エアランゲン。30度を越える暑さ。いよいよ本格的な夏の到来を思わせる。 午後5時にProf.Füllebornに面会し、滞在期間延長の許可をもらい、本務校の大学宛に証明書を書いてもらう。教授と40分程講義のこと、Hofmannsthalの作品のことなど…

≪ニュルンベルクあれこれ≫

ニュルンベルクといえば、まずたいていの人は1930年代のナチス党大会開催地とかニュルンベルク裁判のことを思い浮かべ、暗い表情をうかべるか、顔をしかめたりするであろう。小生がこのような暗い歴史をもつニュルンベルクを滞在地に選んだのは、偶然の理由…