悲しみという原質

 畏友I君から、彼の無二の親友である作曲家平吉毅州氏のことを書かれた『悲しみという原質』というエッセイを送っていただいた。時間をたっぷりかけて読んだものの、容易には言い表わせない不思議な読後感に捉えられている。それは、いまだ心の中ではっきりした形となることなく、渦巻いている感じである。次はI君のエッセイからの引用である。「平吉さんは、尾高賞作品「交響変奏曲」について《私が原質として持っているらしい<悲しみ>のようなものを感じながら筆を進めた》と述べている」。そしてI君は、在りし日の平吉氏の、人懐っこい仕草や口調を眼にし耳にしながら、彼の魂が生み出した作品のすべてに、「原質のような悲しみ」という気質が潜在していることを、見抜いていたようである。「悲しみ」という情動は、いかなるものであり、それはどのようにして知覚されるのだろうか。次もI君の文章からの引用ですある。「私は、人間にとって、最も高貴で上質な精神の働きは<悲しみの覚知>にある、と信じている。<悲しみ>は外在しない。ただ、その人間の内にのみ存在する。<悲しみ>とは、悲しい時にだけ悲しいと感ずることなのではなく、つねに悲しいのだという、本性的な原質なのである。---[中略]--- 平吉氏の《私が原質として持っているらしい悲しみのようなもの》という表現も、そのような根源的な思惟をつねに自らの創作の基層に置く人間の発話として理解されなくてはならない」。(以下続く)