「魚服記」再考(続稿)

 「本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい三四百米ほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷の土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。」
 上に引用したのは作品の冒頭部分であるが、主舞台となる「ぼんじゅ山脈」という空間と、この地にまつわる義経伝説という時間とが叙述されている。この部分を叙述している主体あるいは「語り手」はいかなる存在であろうか。簡単に作者と言ってしまうこともできるが、ナラトロジー論的には「全知の語り手」(神の視点をもつ語り手)というのが妥当であろう。「本州の北端」という地形的な表現や義経伝説を知悉している点など、この叙述の語り手は全知の立場にいることは明白である。
 なぜ叙述の語り手を特定しなければならないかは、この作品が四章から構成され、それぞれの章は仔細に見れば微妙に異なった叙述スタイルを示しているからである。この作品を「語り」という切り口で照射した鶴谷憲三氏は、「魚服記」の語りが色合いの違う三層によって構築されていることを指摘している。第一章の後半で、初秋の頃、色の白い都の学生が馬禿山の裏手にある滝へ羊歯類の採集に来て、絶壁から滝壷へ落ちる事故が起きる。その場面は次のように語られる。
  滝の附近に居合わせた四五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にいる十五に
 なる女の子一番はっきりそれを見た。
 「十五になる女の子」という表現は、作中人物に距離をおいた冷静な語りであり、第一章の叙述スタイルに適応した語りであるともいえよう。第二章に至ると、この女の子は「スワ」と呼ばれ、独りで店番をするまでに成長したスワは、「山に生まれた鬼子」と形容されるまでになる。馬禿山には炭焼小屋が十いくつあるが、スワが父親と住む小屋は他の小屋と余程はなれた滝の傍に建てられていた。それは「小屋の人がちがう土地のものであったからである。」こうして村落共同体からの孤立、排他性が暗示される。
 北川透氏は「語っているのは作者ではなく、仮面である」と捉えて、この作品は普通の現代小説の体裁で始まりながら、途中で文体が変わり、フォークロアの語りの世界に変貌していると述べておられる。「魚服記」のフォークロア性は、物語の最初に出てくる義経伝説や第二章の三郎八郎の湖沼生成伝説、さらには第三章の「こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである」という文章に続いて、天狗が大木を伐り倒す音や遠いところからはっきり響いて来る山人の笑い声など、いずれもこの作品のフォークロア的な特徴に結びついている。
 この作品の「語り」の不思議と魅力は、たとえば西欧のF・K・シュタンツェル風の物語理論では分析しきれない複雑な豊かさの中にある。十三の時のスワは裸身になって滝壷のすぐ近くまで泳いで行って、客に向かって呼びかける無邪気な少女であったが、「それがこのごろになって、すこし思案ぶかくなったのである。」
 「スワはその日もぼんやり滝壷のかたわらに佇んでいた。曇った日で秋風が可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。」鶴谷憲三氏によれば、この一節から物語世界が具体的に「動き出す」のである。この個所で天真爛漫な少女から「思慮深く」「一人前のおんな」に変容したスワの内省的意識が現われるといってもよい。むかし父親がスワを抱いて炭窯の番をしながら語ってくれた話、つまり三郎と八郎というきこりの兄弟の悲劇をスワは思い出したのである。スワが追憶からさめると、滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあと。
 ここで日本語表現における助詞・助動詞の問題に触れる。「…スワの赤い頬を吹きさらしているのだ」と「…スワの赤い頬を吹きさらしている」という表現の違いは、何であろうか。『日本文法大辞典』によれば、準体助詞「の」の用法は次のように説明されている。『用言の連体形について全体を体現化し、下に助動詞「だ」をつけ、「…のだ」の形で、ある事柄について断定的に、あるいは説明的に述べる場合に用いる。』
 日本語の文末表現において使われる助詞や助動詞の形態によって、語りの調子が時に断定的あるいは説得的に変わり得るのである。さらには主語の省略が自由であるという日本語独自の働きによって、西欧語に比べて日本語表現のナラトロジー的解析は一層複雑で困難な構造になるのである。

 第三章は次の文で始まる。

  ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである。
     ……………………
  父親は炭でも蕈(きのこ)でもそれがいい値で売れると、きまって酒くさいいきをし
 てかえった。たまにはスワへも鏡のついた紙の財布やなにかを買って来て呉れた。
     ……………………
  スワは一日じゅう小屋へこもっていた。めずらしくきょうは髪をゆってみたのであ 
 る。ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。そ
 れから焚火をうんと燃やして父親の帰るのを待った。木々のさわぐ音にまじってけだも
 のの叫び声が幾度もきこえた。

 
  疼痛。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。「阿呆。」
 スワは短く叫んだ。ものもわからず外へはしって出た。吹雪!それがどっと顔をぶっ 
 た。おもわずめためた坐って了った。みるみる髪も着物もまっしろになった。

 上に引用した一節はスワが父親に犯される場面であるが、ここでは第三章の終りまで、
「のである」、「のであった」、「のだ」という文末表現は一度も使われてない。ここでの語りは、作中人物スワの知覚や意識をそのまま表現しているといっても間違いではないだろう。すべての事柄は、スワの思考・感覚で捉えられている。F.K.シュタンツェルの術語を使えば、ここでの語りは「作中人物に反映する物語状況」である。
 第4章の前半部では、語り手は滝に飛び込んだスワにしだいに同化していく。F.K.シュタンツェル流に言えば、この現象は「語り手の作中人物化]である。そしてスワの感覚や視点で滝の中を泳ぎ回る。スワは自分が大蛇に変身したのだと思い、「うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ」とひとりごとを言って口ひげを大きく動かす。しかし、大蛇ではなく小さな鮒に変わったことを語るために、語り手はスワの視点を離れて、本来の語り手の外的視点に戻る。そして小さな可愛らしい鮒が胸鰭をひらひらさせながら、小えびを追っかけたり、葦のしげみに隠れたり、岩角の苔をすすったりする可憐な様子を描写する。
 そして、鮒が何か思案するようにじっと動かなくなり、やがて何か決心したようにからだをくねらせながら滝壺へ向かって直進し、くるくると木の葉のように吸いこまれていく見事なラストシーンがやってくる。
 作曲家の飯沼信義氏は、スワのこの滝壺への直進を第二の投身と捉えている。

                       

     





 三浦雅士氏は東北文学研究センター10周年記念シンポジウム(2009年11月23日)での講演において「東北文学は可能か」という問いを立て、この問いをめぐってさまざまな視座から興味深い論を展開している。三浦氏は太宰治を手がかりにして話を進める。太宰の第一創作集『晩年』に、「死のうと思っていた」という言葉で始まる短編「葉」があるが、太宰はなぜ死のうと思っていたのか、その手がかりを探る作品として三浦氏は「魚服記」を挙げている。「魚服記」は、炭焼の男が山の中の滝の前に茶店を作り、自分の娘に店番をさせる。植物採集に来た学生が滝に落ちてあっけなく死んでしまうのを、娘が目撃する。冬になり、親父は町で炭を売った金で酒を飲んで真夜中に帰ってくる。娘を犯そうとすると、飛び出していった娘は滝壺に身を投げて死んでしまう。そういう話であると三浦氏は言う。これはおそらく柳田国男に触発され影響されて書かれたものであると三浦氏は指摘している。柳田国男の『遠野物語』(一九〇九)は、芥川龍之介泉鏡花など、当時の作家たちに非常に強い影響を与えている。柳田は民話を採集していた時期があり、炭焼のことも記している。
「魚服記」には津軽弁が頻繁に出てくるが、とりわけ作中人物が津軽弁で交わす会話の中に、三浦氏は太宰が死にたいと思ったポイントが隠されていると指摘している。以下この点をめぐって、三浦氏の説を紹介しながら理論を展開してみたい。


 「魚服記」の中で、娘が父親に「おめえ、なにしに生きでるば」と訊ねる。「判らねじゃ」と答える父親に娘は手にしていたすすきの葉を噛みさきながら「くたばった方あ、いいんだに」と言う。父親は手をあげかけたが我慢して「そだべな、そだべな」といい加減な返事をする。そのときの娘の心情を太宰は「馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、「阿呆、阿呆」と呶鳴った、と書いている。
 
「何のために生きているんだ」「判らない」「だったら死んだ方がいいじゃないか」「そうだな、そうだな」。この会話のなかに太宰が死にたいと思ったポイントが隠されている、と三浦氏は言う。
 「馬鹿くさくて馬鹿くさくて」というのは津軽弁である。これは標準語の「阿呆らしい」とか「馬鹿みたい」というのとはちょっと意味が違う。一所懸命仕事をして、けれどもそれがまったく無意味だという、そういう時に出てくる言葉である。
 この「馬鹿くせ」という方言について、やはり津軽出身の作家である長部日出雄さんがよく引き合いに出す話がある。津軽に仕事熱心な百姓がいて春に何日もかけて苗を植えた。人心地付いて晩酌しながら、苦労して田植えしたって、どうせ夏は寒いに決まっている、寒くなかったとしても台風が来るに決まっている。そう考えるうちにだんだん腹が立ってきて、その晩のうちに田に引き返して植えた苗をぜんぶ引き抜いてしまう。どうせ寒い夏が来て、嵐が来て、俺が懸命にやったことはぜんぶ無駄になってしまう。「馬鹿くせくて馬鹿くせくて」こんなことやってられない。津軽弁の「馬鹿くせ」というのは、そういう「不条理」な気持を示す強烈な言葉なのである。それ以外には使われないといってもいい。
 「魚服記」のいちばん大きいポイントは、「馬鹿くせくて馬鹿くせくて」というこの言葉に潜んでいる。年頃になった娘は植物の採集に来た色の白い学生を見て「世の中にはあんな格好いい男もいるんだ」と思ったに違いない。ところが滝壷に滑り落ちて死んでしまう。どうでもいいような父親は生きている。娘は自分はどうなのか考える。そして「馬鹿くせくて馬鹿くせくて」と思った。つまり生きていることは「不条理」だと考えた。娘は太宰自身なのである。だから「葉」の冒頭、『晩年』の冒頭に「死のうと思っていた」と書いた。
 でも、太宰が日本の不条理文学の先駆者だとは誰も考えていない。「死にたい病」にかかった甘ったれた作家だと思われている。実はそうじゃない。人間の不条理について真正面から考えた作家なのである。
 柳田国男も、不条理の問題を深く考えさせる文学者である。『山の人生』にしてもそうだし、そのほか、採集した民話の中に、人間はどんな絶望的な状況にあっても生きて行かざるをえない、そういう人間の条件がつぶさに描かれている。
 柳田に大きな影響を与えた人物に国学者平田篤胤がいる。篤胤は神道家として幽霊のことを研究している。幽霊は人間の不条理性の象徴である。柳田は官僚であったが、内心では幽霊にとても惹かれていた。幽霊とは何なのか、人間は死んだ後、どうなるのか、そういうことを考えて、篤胤なんかを読んでいた。
 平田篤胤は、秋田藩士の子として生まれたけれど、ものすごく貧乏な家の末子だった。そこから逃げ出すようにして江戸にいって、とにかく本を読みまくった、すごくまじめな勉強家である。篤胤は『新鬼神論』を書いて新井白石の『鬼神論』を批判する。白石は合理主義の塊のような人であるから、鬼や神、幽霊についてもやっぱり合理的に書いてある。『鬼神論』は鬼や神がテーマだから、学問的には相手にされないけど、篤胤はすごくこだわった。最近、若い研究家たちが、白石や篤胤の鬼神論をとても斬新な視点で論じていて、とても面白い。
 白石や篤胤が幽霊について書いたのは、実は仏教をなんとかしたかったからだというのである。江戸時代の宗教には儒教、仏教、神道の三つがあるわけですが、この中で仏教というのは役場というか役所のようなものだった。お寺は出生届や死亡届を掌握している戸籍係みたいなものだった。葬式仏教というように、同時にあの世のことも管理していたわけである。白石は儒教の立場からそれを批判した。篤胤は神道の立場からさらにそれを批判した。日本にはもともと神の道があったのに、仏教が幅をきかせているのはおかしいというわけである。
 篤胤だけではなく、昔から日本の知識人は日本の古代と中国の古代はそっくりだと主張している。夏や殷や周に日本の神話時代、記紀歌謡の時代を当て嵌める知識人が少なくなかった。
 だけど、孔子は怪力乱神つまり鬼や神を語らなかったということで有名なのである。儒者のなかにも日本と中国の古代は通じ合っているとする人はたくさんいたけれど、さすがに孔子だけは合理主義者として扱われていた。ところが篤胤は、中国の古典をよく読めば、孔子が鬼や神のことに随分触れていることが分かると主張した。そもそも儒教で言う礼とは神とか鬼を祀るもので、孔子はそれがいちばん重要だといっているではないか。祀られるべきその鬼や神の世界が的確に書かれているのが記紀歌謡であって、中国では忘れられたその真理が神国日本には有難くもそのまま残っているのだ。篤胤は宣長の延長上でさらに過激になっているのである。
 じつはこの議論を間接的に証明した人がいる。漢文学者の白川静である。殷の時代、王が亀の甲羅や牛の肩甲骨を焼いてそのひび割れ具合で占いをしたものに記された文字を甲骨文と言うが、白川静はその研究から、じつに独創的な漢字起源論を称えた。その過程で、中国最古の古典『詩経』と『万葉集』が酷似していることから、古代中国と古代日本の根本的な類似を指摘している。彼も、孔子儒者ならぬ呪者だったと言っている。
 この白川静に決定的な影響を与えたのが東洋学者の内藤湖南である。湖南は十和田湖の南、鹿角の出身である。いま世界的に行われている中国史の基本的な時代区分、中国は宋の時代に近世を迎えたという説は、最初に湖南が称えたものである。中国の学者もこれを採用している。
 朝日新聞に勤めていた湖南を京都大学の教授に招聘したのが京都大学文学部を作った狩野亨吉である。江戸中期の思想家、安藤昌益を発掘したのも狩野である。安藤昌益は現在の秋田県大館市出身で、八戸で医者をしていた人であるが、著書『自然真営道』の中で、身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきだと主張している。江戸時代にすでに共産主義そっくりなことを言っている。この安藤昌益を発見したのが狩野なのである。篤胤も湖南も狩野も昌益も、みんな東北出身で、中央の間尺に合わない画期的な理論を呈示した人物たちである。
 なぜか、東北からは世界に直結するグローバルな逸材が輩出する。版画家の棟方志功、日本に本格的なバレエを根づかせた小牧正英、秋田出身の舞踏家・土方巽、青森出身の寺山修司。それから江戸末期から明治時代にかけて活躍した思想家の高山樗牛。型破りな人物が次々に生まれている。これはなぜなのか。
 方位性としての東北…東北は方位を示す言葉である。日本だけではなく、ヨーロッパにも中国にも、どこにでも東北は存在する。共産主義が崩壊した直後の一九九〇年、パリを出発点にしてヨーロッパを北上した時にはっきりわかったのは、いわゆる東欧というのはヨーロッパの東北だということである。東欧文学というのはつまりヨーロッパの東北文学なのだということである。カフカクンデラもヨーロッパの東北文学作家である。安部公房満州に行った。日本からみたら満州は西北だけど、中国の中では東北に位置する。方位としての東北は世界中にあって独特な意味を持つ。
 西洋文学において最初の東北文学はドイツ文学であった。ゲーテやシラーは東北文学だった。この東北文学を紹介したのがフランスのスタール夫人である。この衝撃が凄かったのは、シェイクスピアまでもがシラーやゲーテという東北を介して西洋の中央に躍り出てきたからである。シェイクスピアの迫力を世界文学として最初に発見したのはヨーロッパの東北人、ゲーテやシラーだった。ドイツ文学が西洋文学の中心になると、今度はさらに新しい東北文学が西洋文学に殴り込みをかける。もちろんロシア文学である。ロシアはドイツのさらに東北に位置する。プーシキンゴーゴリツルゲーネフドストエフスキートルストイ。ロシアの文学者が次々に西洋で注目されていく。西洋文学の歴史は東北発見の歴史なのだ。
 文学だけじゃなく、美術も音楽もそうだ。チャイコフスキーストラヴィンスキーバルトークコダーイショスタコービッチ、ロシアや東欧の旋律が雪崩を打って入ってくる。
 なぜ、人は東北という方位を強烈に感じるのだろうか。三浦氏の講義はさらに続くが、要するに「東北」という一点を鋭く深く掘り下げることによって、普遍的な世界が見えてくるというのが、三浦氏の主張の骨子に思われる。
最後に一点だけ感想を述べさせてもらえば、東北という「方位」と人間の「不条理」の関係をもっと掘り下げて分析してほしかった。