今年やり残した事など(メモ風に)

 近隣の街に住む工芸デザインを専門とする方が、私の住むマンションの一階の集会室で数度にわたって、「大人の課外授業『人生100年時代を生きる』自分史の書き方」というテーマで講義をなされた。私も知り合いを通して誘われ何度か出席した。さまざまな資料を駆使され、自分がこれまで全く意識していなかった視点から、「自分の生き方」というものを見直すことを教えられた。写真や画像や図表を使われながらの説明は、デザイナーらしいセンスに裏打ちされた分かり易いものであった。出席者の数は多くはなかったが、それぞれ質問したり意見を述べ合ったり、肩の凝らない雰囲気であった。
 この授業を通じて「自分史」というものを初めて強く意識するようになり、高齢になりつつある自分は「いのち」とか「死」というものを深く考え始めた。栃木県の益子町に住む内科医で住職を兼ねる田中雅博さんは末期がんで、余命わずかであるが、田中さんの言葉が朝日新聞のインタビュー欄に載っていた。「医学はいのちを延ばすことを扱うわけですが、そのいのちをどう生きるかという問題にはまったく役に立たない。体の痛みを止める医師が必要であるのと同じように、『いのちの苦』(spiritual pain)の専門家が必要です。それがほとんどいないのは日本の医療の欠陥だと思います」。「死生観といっても、自分では、たいしたものは考え出せません。古典を読むと役に立ちます」。

 大震災、天候異変、テロ、多数の難民、経済危機といった地球規模での大変動が起こりつつある現在だからこそ、根源的な理論を再度読んでみたくなる。出来事を説明するだけの単なる現象論ではなく、人間の生きることの意味の再考を迫るような「根源的」な思想に触れたい。
 マルクスの『共産党宣言』や『資本論』を再読することの意味について、内田樹白水社のパブリッシャーズ・レビュー(白水社の本棚)に書いている。その当否は別にして少し引用してみよう。「マルクス主義ほど多くの人を怒らせた思想は他にない。……それはマルクス主義がそれだけ『根源的な』思想だということを意味している。良くも悪くも、マルクスの思想は私たちの思考の枠組みを土台から衝き動かす。その衝撃によって私たちの日常的な理非適否の判断基準は覆され、無効を宣される。」文末で内田はこう述べている。「それはマルクスが人々にものごとを『根源的に思考する』とはどういうことかを教え、ろくでもない政治体制のろくでもなさを思い知らせてくれるからである。それだけでもマルクスはいますぐ手に取って読む甲斐があると私は思う」。
 私は学生時代はノンポリマルキストでもなく、政治活動にもかかわらなかったが、マルクスの思想に再度触れてみたい気持ちは強く感じている。

 今年はドストエフスキーの会に入会し、例会にも何度か出席し、主宰している友人の誘いもあってドストエフスキーに関する小論を書き上げたので、そのことにちょっと触れたい。ドストエフスキーに関する小論というのは、「トーマス・マンドストエフスキー論」のことであるが。私は元来ドイツ文学・オーストリア文学を専攻した者であり、しかもトーマス・マン
魔の山』を読んで感激したことがドイツ文学研究の道に進む契機となっている。そんなわけで、マンがドストエフスキーという巨大な作家に対してどのような観方をしているかということは、大きな興味をそそられる事柄でもあった。優れたロシアの批評家メレジュコフスキーは、ドストエフスキーは人間の心の最も内奥に潜み、最も犯罪的である動きをあばきだしたと分析している。ニーチェドストエフスキーは、認識の放埓、その陶然たる野放図さ、悪魔的な反道徳主義という点で共通している、とマンは言う。シベリアでの強制労働の恐るべき体験を経て書かれた『地下生活者の手記』は、ドストエフスキーの創作に一大転機をもたらした作品であり、その苦悩と嘲笑に満ちた成果は、すべての文学的なものを仮借もなく乗り越える要素に横溢している。
 作家で元外交官の佐藤優氏は、「正解」と思える読み方を軽く超えていくのがドストエフスキーのすごさである、と指摘する(朝日新聞「よみたい古典」)。文学作品に正解といったものがあるのであろうか、と自問せざるを得ない。

 中欧への旅ー歴史と文化の風景を求めて』(著者にとって極めて参考になった書評。この書評など参考にしながら、今後もさらに中欧論を深めてゆきたい。)
 歴史的には敗者とも言える中欧の魅力について。
 西欧と東欧に挟まれ、多様性を有する中欧の歴史と文化をどう理解すべきかのヒントが与えられている。本の題名から受ける旅行案内的な印象とは全く別種の内容のものです。
 短いですが内容的に複雑なため、章立てと一部ですが若干の感想を含めてご紹介します。
・「第1章 「中欧」概念の歴史的変遷」
  「中欧」という言葉を初めて語彙として広めたフリードリヒ・ナウマンの「中欧論」(1915年:その先駆けは1914年の論文)を導入として概論的に紹介している。
・「第2章 ミラン・クンデラ中欧意識」
  中欧の歴史・文化・作家に対して積極的な発言を行っているミラン・クンデラに関する短い論評。「中欧においては、少国民の問題が最も意味深く凝縮され、模範的な形で顕在化している(クンデラ「カーテン」)」。
・「第3章 都市の夢としての歴史―ブタペストの場合―」
  中欧の都市の例としてのブタペストを紹介するため、「ブダペシュト史 : 都市の夢」(南塚信吾著 現代思潮新社 2007年)を要約して紹介している。
・「第4章 プラハの街の地形学
  プラハの名所・旧跡の紹介から始まり、ハシェク、チャペック、マイリンク、カフカの人物像と作品について、さらにフリッツ・マウトナーによるプラハ・ドイツ語に対する批判、チェコ語、ドイツ人・チェコ人・ユダヤ人に関して。
・「第5章 カフカハシェクの文学」
  同じプラハに生活の基盤を置いたドイツ語としてのカフカの文学とチェコ語であるハシェクを比較しながら、彼ら二人の背景的なものを探ろうとする。原著でしか読めないカレル・コシークの優れた論評が紹介されおり勉強になりました。
・「第6章 チェコ構造主義美学とその周辺」
  本の題名から予想された内容の域を明らかに逸脱(?)していると思われる、プラーグ言語学派の一人であるヤン・ムカジョフスキーがチェコ構造主義の問題として取り上げた議論が紹介されている。
・「第7章 ボジェナ・ニェムツォヴァー作「おばあさん」(栗栖継訳)を読む」
・「第8章 中欧像を求めて」
  「思想」(2012年4月)に掲載されたヨゼフ・クロウトヴォルによる「中欧の困難さ−アクネドートと歴史」の要約。
・「第9章 神聖ローマ帝国の遺産とハプスブルク神話」
 意図的になのか、文献がいくつか切れ目なく引用されている部分があり、分かりづらいと言えば分かりづらい。章の題名が内容に相応しいのかも疑問が残るものもある。
 中欧の歴史を含めて数多くの作家たちが紹介され、中欧の有する複雑さがそのまま表現されているような印象も受けます。