新しい年を迎えて


 冒頭に掲げた写真は、信濃の国の秘境の隅々まで知り尽くした、筆者の敬愛してやまないT探検隊長が送ってくれた数十枚の大判プリント版写真からたった2枚だけ選んだものである。隊長から写真掲載の許可は得ていないが、「共有」という形で許してもらえると勝手に決め込んでいる。昨年の11月末から体調を悪くして通院治療をしている筆者のために送ってくれたこれらの写真は、隊長さんの言葉を借りれば、視(ミ)薬と称するそうだ。まさにどの写真も目の保養どころか、魅入られるような美しさだ。そのほか大鹿村蕎麦屋さんが日本一をとったカレー(Ohoshika Gibier)と大鹿歌舞伎のタオルを送ってもらった。これらの嬉しい贈り物に添えて、今年は諏訪大社御柱(おんばしら)祭が行われる年ということで、諏訪大社下社の勇壮な「木落し」の迫力ある現場写真が満載された貴重な資料もあり、たいへん興味深かった。隊長の心優しい思い遣りが胸に沁みた。 



 以下はガラリと話題が変わるが、昨年末以来ずっと気になっているテーマ「村上春樹論」について少し触れておきたい。村上春樹の全作品を時系列に沿って体系的に読むことにどれほどの、あるいはどういう意味があるのか、筆者にはよく理解できない。つまり、「村上春樹の作品をすべて読むのはむずかしい、そしてしんどい」ということである。軽快な文体で書かれた面白い作品を読んで、心地よい解放感に浸れればそれでいいのではないか、というのが筆者の立場である。ある評者によれば、初期の「鼠三部作」は、無視もできず、正面から語ることもできない”重大な何か”をめぐる物語が隠蔽と韜晦といった語り口を通して語られる。ところが『ノルウェイの森』に至ると隠蔽とか韜晦といった息苦しい特徴がすっかり解除され、天衣無縫の物語へと変身し、1980年代という時代の雰囲気の中で好意的に受容され、一大ベストセラー小説となる。この作品がこれまでにないような新境地を拓いた理由は、主人公であり語り手である「僕」(一人称単数)の融通無碍の有り様である。つまり日本語特有の語法にもよるであろうが、西欧流の物語理論、すなわち「語り」の構造の徹底的な分析から明らかになるように思われる。さらに「鼠三部作」における「僕」の語りのスタイルを、「有意味なものを貶下し、無意味なものに真剣に取り組んで見せるロマン的イロニー」と批判した柄谷行人の指摘は示唆に富む。
 言い訳めくが、体調不良による準備不足もあり、さらに掘り下げた詳しい分析は稿を改めたい。