カフカの『城』とはなにか ・・・ 『城』を求めての果てしなき旅(続稿)

 十四世紀神聖ローマ帝国皇帝であったカレル四世(在位一三四六─一三七八年)治世の時代にプラハの街の骨格となる形がほぼ完成した。プラハ大学創設、カレル橋の創建、大司教座を置くなど歴史に残る多くの偉業を行なった。旧市街のほかに新市街の建設を促進させた。城下町(マラー・ストラナ)に多くの教会や修道院をつくった。
 一五二六年よりボヘミアハプスブルク家の支配のもとにあったが、一五四七年反ハプスブルクの蜂起も失敗に終わった。一六一六年から再びチェコ貴族による反ハプスブルク闘争が起こったが、一六二〇年いわゆる「ビーラー・ホラ(白山)の戦い」によって鎮圧された。さらに三十年戦争によって経済力を失い、最後までボヘミアの防衛拠点であったプラハは、一六四八年スウェーデン軍に占領された。
 現在、煤で灰色にくすんでいたプラハは、修復作業によって、美しい街並みの外観を取り戻している。各時代のさまざまな建築様式が競い合うように街並みを飾っている。「王家の近道(ロイヤル・ロード)」と呼ばれる道があるが、それは火薬塔を出発点として、旧市街広場を横切り、カレル橋を渡って「マラー・ストラナ(城下町)」を過ぎ、フラッチャニ(プラハ)城へといたる道である。現在では観光コースとなっているが、昔から王に謁見する使節団とか商人たちが歩んできた道である。道沿いの建築は、ロマネスク様式に始まり、ゴシック、バロックを経て、アール・ヌーヴォーのスタイルまで揃っている。
 最初の王朝であるプシェミスル家によってチェコが国家として統一されると、フラッチャニ城が国王の居城となった。ヨゼフォフ(ヨーゼフ)地区は、元はユダヤ人のゲットーで、十九世紀末にはスラム化が進行していたため、衛生化措置によって全面的な再開発の機運がおこり、不潔なスラムの家々をエレガントなアパート群に一変させるべく採用されたのが、パリ風の新スタイル「アール・ヌーヴォー」であり、ヨゼフォフ地区の再開発は、プラハの街をアール・ヌーヴォーの街とするきっかけになった。
 ヴァーツラフ広場は、一三四八年カレル四世が新市街につくった広場である。元来は、馬や穀物の市場であったが、一八四八年この広場の正面にヴァーツラフ一世の銅像が建てられて以来、彼の名称で呼ばれるようになった。
 ヴルタヴァ川沿いの旧市街と新市街の境目に位置する国民劇場は、チェコ国民がドイツの支配に対して抵抗した民族主義の運動を象徴する代表的な建物である。チェコ国民は、チェコ語による国民自身の劇場を望んで全国的なキャンペーンを起こし、資金を集めて自力で建設したのである。一八八一年ネオ・ルネサンス様式の劇場が完成したが、落成式の前夜信じられない悲劇が起き、劇場が火災で焼失した。もちろん劇場は、国民の寄付によって再建された。
 十九世紀半ば頃の建築は、ウィーンの歴史主義的な建築スタイルの影響を受けている。この国民劇場もそうである。そのほかルドフィヌム・コンサート・ホール、国立オペラ劇場、国立博物館などもウィーンの影響を受けた折衷主義の様式である。
 旧市街広場にある旧市庁舎は壁時計によって知られるが、暗黒の歴史をもっている。一六二〇年、ビーラー・ホラの戦いでハプスブルク王朝との戦いに敗れたプロテスタントチェコ貴族たちは、翌年この市庁舎で裁判にかけられ、その結果二十七人の指導者が市庁舎前の旧市街広場で斬首された。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの爆撃によって、建物は大きな被害を受けた。
 旧市街広場の中央には、十五世紀の宗教改革の先駆者ヤン・フスのブロンズ像がある。
 現在もプラハ市の観光名所の一つである旧ユダヤ人墓地。小山のように盛り上がった土の中から、墓石がさまざまの方角に向けて突き出ており、ぎっしりと族生(群がり生える)しているように見える。用地が制限されていたために、ゲットーの住人たちは、既存の墓地の上に盛土をして、新しい墓石を据えるという手段を講じて、墓地を幾層にも重畳させていった。それは、最大限十二層にまで達しているといわれる。
 墓地の後方に建てられているピンカス教会の内部の壁には、第二次世界大戦ナチス・ドイツの犠牲となったボヘミアモラヴィア地方出身のユダヤ人七七、二九七人の名が彫られている。

 ユダヤ人街では、一個人が土地付き一戸建ての家屋をもつことは、ほとんど不可能であった。一軒の家屋の半フロアー分をある家族が所有していたり、また別の家族は階段の吹き抜けの一部のみを、あるいは柱だけを、あるいは天窓だけを、あるいは地下室だけを所有しているというあんばいである。こうした「分割家屋」は、登記簿に、一軒につき三十人の所有者が併記されていることもあったという。
 カレル橋……洪水や戦闘にも耐える頑強な橋を作るため、石と石を繋ぐモルタルには生卵が混ぜられたという。この橋の基本構造はゴシック様式で、欄干にはバロック時代の有名な彫刻家たちの手になる三十体の聖人の彫像が並んでいる。橋の両側に立つゴシックの防衛塔は、かつては橋の通行税を取る関所として使われていた。
 マラー・ストラナには、作曲家ベートーヴェンやフランスの詩人シャトーブリアンも一時滞在した。マラー・ストラナ広場に立つ十三世紀末に建てられた聖ミクラーシュ教会は、一七一一年バロック様式に建て直された。銅造りの丸屋根(キューポラ)をもつこの寺院は、バロック時代のプラハを偲ばせる代表的建築物である。その威容はまた、カトリックハプスブルク家の支配力の象徴でもある。

 「ペルトラムカ」の家……十七世紀末に建てられた古い館であるが、一七八四年オペラ歌手ヨゼフィナ・ドシュコヴァに買い取られた。彼女は音楽教授の夫と一七七七年新婚旅行中にザルツブルクモーツァルト一家と知り合い、若き作曲家モーツァルトプラハに招いた。こうしてモーツァルトの最初のプラハ訪問が一七八七年一月に実現した。モーツァルトは長くプラハに滞在し、秋には周囲の山の美しい紅葉を楽しみながら、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の創作に励んだという。プラハ五度目の滞在の際、彼は再度ペルトラムカで泊まったが、それが最後となった。病を得たまま、彼はウィーンへ戻り、そこで自作のオペラ『魔笛』を初演したが、同年十二月五日、三十五歳の若さでこの世を去った。
 ウィーンでは彼の遺体は墓掘人の手によって貧民共同墓地に埋葬されたが、プラハでは十二月十四日、聖ミクラーシュ教会でモーツァルトのためのミサが盛大に執り行われ、その死が悼まれた。親友のオペラ歌手ドシュコヴァ夫人がソロを歌った。
 チェコの国は小さく、敗北の歴史を重ねているので、屈折した心理的コンプレックスは大きい。十九世紀末にはオーストリア・ウィーン文化に対する対抗意識からフランス文化への好奇心が生まれ、かつてはウィーンやミュンヘンへ勉学のため出かけていた芸術家たちは、今やパリへ向かうようになる。アルフォンス・ミュシャなど。アール・ヌーヴォー様式以外にも、フランスのモダンアートの影響を受けたキュビスムの建築や彫刻、工芸が生まれている。
 チェコでは、被支配者、非抑圧者としての歴史から生まれた文学が優勢ともいえるが、プラック・ユーモアをもって抵抗する能力に優れており、プラハで有名な人形劇もこの系譜に属する。

 第一次世界大戦中、自らの体験に基づいて『善良な兵士シュヴェイクの物語』というシリーズ小説を書いたヤロスラフ・ハシェクのユーモアは、その代表的なものである。小説の正式な題名は、「ある兵士が第一次大戦において出会う滑稽な事件の数々を描いた未完の連作短編」である。ハシェクの両親は南ボヘミア生まれであるが、ハシェクプラハ生まれ。生没年が奇しくもカフカとほぼ重なり合っているのは、不思議な暗合というべきか。カフカは、一八八三年に生まれ、一九二四年に没した。
                  
 プラハの街を語る時、必ずと言っていいほど引き合いに出されるのが、グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』という小説である。プラハに伝わる有名なゴーレム伝説にヒントを得ながら、一応形の上ではそれを下敷きにして書かれた作品である。ゴーレム伝説というのは、十六世紀にプラハに実在したレーフというラビ(ユダヤ教の律法学者)が、キリスト教徒によるユダヤ人迫害に対処しようとして、土から造り上げた人造人間ゴーレムが、舌の裏に護符を差しこまれた時にそれを呑み、生命を得て、大活躍をしたが、師がその護符を取り去ると、またもとの土人形に返ってしまう。ところが、ある晩ラビが護符を取りはずすのを忘れると急に凶暴になって街を暴れまわり、これを追って捕まえたラビに護符をはぎ取られてもとの土くれに返った、という話である。
 グスタフ・マイリンクは、ウィーンに生まれ、幼少期をミュンヘンで過ごし、ギムナジウムと大学はプラハで通い、引き続いて何年かプラハで銀行業を営む。プラハで暮らすうちに迷宮都市のような神秘性と妖しい魅力をもつプラハの街にしだいに惹かれていったマイリンクは、彼が傾倒していたオカルティズム、カバラ神秘主義グノーシス思想、ヨーガ、錬金術、シュタイナーの神智学といったあらゆる知識を総合させ、あるいはごった混ぜにしながら、幻想文学『ゴーレム』を書き上げた。
 マイリンクは、プラハを闇と光の、此岸と彼岸のはざまに立つ都市として表現している。すなわちマイリンクは、プラハの都市図を、モルダウの流れをはさんではっきりと闇の地区と光の地区に分ける。闇のゲットー(ユダヤ人居住区)と光のフラチーン(プラハ城)、すなわちゲットーを抱える旧市街地区とフラチーン城が聳えるクラインザイテ(マラー・ストラナ)地区とに。 そして、闇の此岸と光の彼岸とを結ぶのは、言うまでもなく古い聖像の立ち並ぶ石造の橋、カレル橋である。
 もちろん、このような幻想は仮構にすぎないことは言うまでもない。
 カフカの描くプラハ(幻想が現実であり、現実が幻想であるという風に、現実と幻想の境界が取り払われ、両者が表裏一体となっている)とは違って、マイリンクの描くプラハは仮構性に満ち満ちたものといえる。
 マイリンクの『ゴーレム』は、エルンスト・ブロッホが言うように(『希望の原理』)、風刺性、言い換えれば、客観性が欠如した、幻視と幻想が戯れる主観的な世界である。
 カフカの文学はどうであろうか。カフカの文学は、トドロフが言うように、「幻想が常態(日常)となった」現代における文学として捉えなければならない。そこでは、光と闇、彼岸と此岸といった二項対立的図式による図形学は、もはや有効性を失っている。

 一九〇〇年の国勢調査によると、プラハ市内には四一五、〇〇〇人のチェコ人、二五、〇〇〇人のユダヤ人、一〇〇、〇〇〇人のドイツ人が住んでいた。(数字は概数)プラハ在住のユダヤ人で、使用言語を「チェコ語」として申告した者は一四、一四五人、「ドイツ語」として申告した者は一一、三四六人(ユダヤ人全体の四五、三%)であった。調査がチェコ人の市当局の監督下で行われた事情もあって、チェコ人の間で勢力を増していた反ユダヤ主義に対して、ユダヤ人が政治的な配慮をしたことも考慮に入れなければならない。
 カフカの父は、当初から一貫して家族の使用言語を「チェコ語」として申告していたが、カフカ自身は一九一〇年の調査では、父の意向に逆らって「ドイツ語」で届け出ている。
 フリッツ・マウトナーはプラハで幼少期、青年期を過ごしたが(一八五六─七六)、この時代を回想した『自伝』のなかで、彼は「二つの言語が混在しているボヘミアユダヤ人として」ドイツ語、チェコ語ヘブライ語という「三つの言語の死骸を、自分自身の言葉のなかにしまいこんで、始終、持ち歩かなければならなかった」と記している。こうした境遇が、彼を言語の探求へと駆り立てる原動力ともなった。彼は、あくまでドイツ系ボヘミア人として自己を規定していた。
 マウトナーの言語批判論の原型を形づくることになった、いわゆるプラハ・ドイツ語への批判も、それがいわば「死んだ言葉」である点に向けられている。
 「チェコ人の地方住民にかこまれて、ボヘミアの内部に住んでいるドイツ人は、ドイツ語の方言を話すことはない。耳と口がそっくりスラヴ語にむけられているのでないかぎり、彼は、いわば紙に書かれたドイツ語を話しているのである。そこには、大地に根ざした表現の豊かさが欠けている。方言の諸形式のもつ豊かさが欠けている。その言語は貧しい。」
 プラハ・ドイツ語に関する論議に刺激を与えたのは、ヴァーゲンバッハによるカフカの文体に関する解釈であり、またその際に、重要な典拠の一つになったのがマウトナーの見解である。        
 マウトナーがボヘミアの小都市ホルジチュから、両親にしたがってプラハへ移住してきたのは、一八五五年のことであったが、その頃印象に残ったこととして、当時は道路標識や商店の屋号、酒場の看板などが、ほとんど例外なくドイツ語であったと彼は書き記している。
 しかし一八六一年、初のチェコ人市長が誕生し、プラハ市議会、ボヘミア州議会でチェコ人勢力が進出してくると、プラハの街路標識も漸次改変され、結局一八九四年にはチェコ語の単独表記に統一されることになる。
 チェコ民族運動は、とりわけ言語運動として展開された。ドイツ語の単独表記から、ドイツ語―チェコ語の併記へ、さらにチェコ語―ドイツ語の併記へ、そして最終的にはチェコ語の単独表記へとめまぐるしく変遷したプラハ市内の道路標識が如実に示しているように、プラハの街にはスラヴ色がますます強く刻印されてゆく。道路標識に見られる言語の一元化は、官公庁における公用語にも影響し、チェコ語にドイツ語と同等の地位を要求する民族運動が高まった。
 一八九五年に首相に就任したバデーニが九七年に発布したバデーニ言語条例によって、初めてチェコ語も官庁用語として認められたが、官吏に両公用語の習得を強制するこの条例は、ドイツ人を著しく不利な立場に追い込むものとして、ドイツ人の側からの激しい抗議行動によってバデーニは罷免された。一方、それに対するチェコ人の反発も激しく、反ユダヤ主義的な傾向を帯びた暴動へと発展し、戒厳令が発布されてボヘミア議会が機能停止となり、その結果一九〇七年までボヘミア州はウィーンの帝国政府から直轄統治されることになる。
 世紀末の一八九五年から世紀転換期にかけて「衛生化措置条例」によって、ユダヤ人街(ヨーゼフ街)を中心にして古い老朽家屋の取り壊しが進められ、その跡地に次々と新築家屋(賃貸住宅)が建設された。
 幼児期にヨーゼフ街の古くて入り組んだ環境を体験していたカフカは「衛生化措置」によるプラハの街の変化について、ヤノーホに次のように語ったという。「ぼくらの心の中には今でもあの暗い片隅や、いわくありげな通路、盲窓、汚い中庭、騒がしい居酒屋、戸閉めした宿屋などが生きている。ぼくらは今この建て直された町の幅広い道路を歩いている。けれどもぼくらの歩みと視線は落ち着かない。心の中では今でもぼくらは悲惨な古い路地にいるみたいに慄(ふる)えている。ぼくらの心臓はまだあの実施された環境整理を受けつけていないんだ。心の中のこの不健康な古いユダヤ人街は、ぼくらのまわりの衛生的な新しい町よりもずっと現実的なんだ。目覚めたままぼくらは夢のなかを歩いている、ぼくら自身も過ぎ去った時代の亡霊なのかもしれない。」
 
 ユダヤ人街のたたずまいや雰囲気を描くにしても、非ユダヤ人であるマイリンク(『ゴーレム』)やレッピン(『ユダヤ人街の幽霊』)の場合、かなり様相を異にしている。彼らは二人ともドイツ人であって、ユダヤ人ではなかった。異民族の眼に映じるままに、ゲットーがはらんでいる闇を隠喩として、メタフォリックに表現しようとする姿勢には、一種の差別的目線が潜んでいたのではなかっただろうか。   
 プラハの大まかな地誌を図式として示すならば、モルダウ川を境として、左岸のフラチーン、クラインザイテと右岸のユダヤ人街を含む旧市街および新市街に区分される。
 プラハ本駅(旧フランツ・ヨーゼフ駅)に着いて、正面出口から外に出ると、パルク小路をへだてた向こう側に市立公園が広がっている。かつては静かな憩いの場として、プラハ市民に親しまれていた。

 ウィリー・ハースは、その著書の中で、当時のプラハの街と市民の生活、著者の交友関係について語っている(原田義人訳『文学的回想』)。
 ドイツ人とユダヤ人。これはその当時のチェコプラハにとってはほとんど同じものであり、ドイツ人とユダヤ人とは、同じように憎まれていた。……クラインザイテ市域にある神秘的で豪壮なバロック式邸宅に住む貴族たちはフランス語を喋り、いかなる国民にも属さず、ほとんど一世紀も前から消えてしまっていた神聖ローマ帝国の家臣をもって任ずるものであった。私(著者)の乳母、子守り、私の家の料理女、女中はチェコ語を喋り、私も彼女たちとともにチェコ語を喋っていた。……私が六歳になってヘレンガッセにあるピアリスト会の学校に入ると、一学年上級にフランツ・ヴェルフェルがいて、私は彼とはしょっちゅう市立公園で遊んだものだった。ヴェルフェルの家は私の家よりもかなり階級が上で金持であり、騒々しい旧市内ではなく、市立公園のそばの静かで品のよいマリーエンガッセに住んでいた。(ヴェルフェルの父親は、手袋製造会社の経営者であり大富豪であった。)ピアリスト修道院付属学校には、ルネ・マリア・リルケも一緒に学んでいた。彼の両親の家は、ヴェルフェルの家からほんの街角二つばかりしか離れていなかったが、いくらか階級の落ちる界隅であった。……こんな風に上流や中流や下層のいろいろな階級が棲み分けをしていた。……ウィーンとプラハユダヤ系ドイツ人の社会層はひどく不安定な状態にあった。彼らは自分たちを門閥家と考えていた。その根拠は、自分たちが古いボヘミアオーストリアの素姓を持ち、愛国心を持ち、財産を持ち、グスタフ・マーラージークムント・フロイトやアンリ・ベルグソンアルベルト・アインシュタインのような偉大な芸術家、思想家、医師、科学者を知り合いに持っていたからである。(アインシュタインは、その当時プラハ大学で講義をしていた。)……ユダヤ人たちはチェコ人と大部分のドイツ人とに憎まれていたが、ハプスブルク家の皇帝および名門の人々からは、いくらかの好意もしくは公正さを期待できた。皇帝から期待できた理由はおそらく、ハインリヒ・ハイネの礼讃者であった亡きエリーザベト皇后がウィーン宮廷において反ユダヤ主義を決して許さなかったからである。彼女は不幸な息子であったルードルフ皇太子と同様、あるタイプの国際主義的なユダヤ系ジャーナリストおよび作家に対する共感さえ抱いていた。

 パーヴェル・アイスナーは、その著『カフカプラハ』の中で次のような基本テーゼを立てている。すなわち、フランツ・カフカは、ただそのプラハの観点からのみ、したがって、二度とありえぬ類い稀な境遇を深く認識することによってのみ解明可能である、というものである。
 パーヴェル・アイスナーは、一八八九年にプラハ生まれ、一九五八年同地に没したカフカの同時代人である。
 アイスナーの基本テーゼによれば、カフカはドイツ語を話しながらドイツ人ではなく、そうかといって正統な信仰をもったユダヤ人でもなく、ましてやチェコ人ではなかった。いわばおのれの存在の自己同一性を確認しようとすればするほど、さまざまな敵対原理によってその自己同一性の根底を崩されるという逆説的な関係こそ、まさに彼が身を置かねばならぬ情況であった。常に社会の片隅に身を置く辺境居住者、異邦人であり、無用者であった。
 市民と芸術家の対立を描くことによって、芸術家の社会的「やましさ」を問題化したトーマス・マンとは対照的な存在である。「市民対芸術家」というある意味で安定した図式ではなく、カフカの場合、プラハに生きることに伴う倫理的ジレンマ、罪障感(罪意識)という存在論的な状況が基本的な問題であった。
 フランツ・ヴェルフェルは、大実業家で財閥の息子であったが、カフカは裕福な市民の息子ではあっても、チェコプラハの出身ではなく、ドイツ・プラハの出身(プラハ出身のドイツ系ユダヤ人)であり、地方的偏狭性の中に閉じ込められて、外界に通じる出口や通風孔をもたなかった。(ベルリン、ウィーン、パリ、オスロ、あるいはニューヨークには住まなかった。)
 フランツ・ヴェルフェル、マックス・ブロート、エゴン・エルヴィン・キッシュ、ヴィリー・ハース、カール・クラウスなどの教養ある文化人たちは、精神的ゲットーを脱出して、海外へ、ウィーン、ベルリン、ドレスデンハンブルクへ、あるいはシオニズム運動へと逃亡した。
 カフカは、平均的なプラハのドイツ系ユダヤ人とは異なり、自力でチェコ語の正確な知識とチェコ文化、そしてイディッシュ文学に対する深い理解を身につけていた。
 
 カフカは、プラハチェコ文学者の急進的な組織である「青年クラブ」に足繁く出入りし、このクラブで『勇敢な兵士シュヴェイク』の著者であるヤロスラフ・ハシェクと知り合いになった。社会機構に対する激しい反抗者たるシュヴェイクにとっては、いかに生きる<べき>かが問題であったが、カフカにとっては、自分は<存在>しうるのか、存在<すべき>なのか、ということが問題であった。
 カフカにおいてはすべてはきわめて精緻であると同時に幻覚的であり、手に触れうるほど具体的であると同時に魔法めいた影であり、そしてそこに一貫している雰囲気は、模糊とした罪障意識と不安、広場恐怖症的な浮遊性のそれである。
 次に掲げるのは、『ある戦いの記録』の中の「旧市街広場」に言及した一節である。大円形広場にまつわる幻視。奇妙な浮遊感覚。

 《だが、ある大きな広場を横切らなければならないとき、僕はなにもかも忘れてしまう。思い上がりからこんな大きな広場を造るのなら、なぜ広場を斜めに横切る手すりを一緒に造らないのか? 今日は南西の風が吹いている。市庁舎の塔の先端が輪をえがいてくるくるまわっている。窓枠はいっせいにガタガタ鳴り、街路灯の支柱は竹のようにたわんでいる。円柱のてっぺんに立っている聖母マリアの外套は、吹き上げられ、風に引きちぎられそうだ。どうして誰の眼にもそれが見えないのだろうか? 敷石の上を歩く紳士淑女も、足が宙に浮く始末。風がやむと、彼らは立ちどまり、二言三言言葉を交わし、身をかがめて挨拶をする。そしてまた風が吹けば、逆らうこともできず、またいっせいに足が宙に浮いてしまう。なるほど帽子はしっかり押えていなければならないのだが、彼らの眼は楽しそうで、天候にはさらさら不平などない、といった体だ。僕だけが怖がっている。》
 カフカの言語。カフカの透明なドイツ語──クライストやアーダルベルト・シュティフターのそれを思わせる──には、二、三の稚拙な構文上のチェコ訛りが出てくる。カフカのブッキシュなドイツ語は、まったく文語的であり、どのような方言用法も一つとして混入していない。プラハユダヤ・ドイツ人の言語創出は、完全に個人的なもので、人々の口から生まれたものではない。(リルケやヴェルフェルの場合などに見られるように。)それは人工品そのものとして創り出されるのだ。カフカの作品に登場する数多くの人物たちは、例外なく完全無欠の文語的なドイツ語を話す。この特徴が、カフカの人物像と影絵芝居の幻想的な性質を強めるのに大きく貢献している。

『掟の前で』(掟の門前)解釈 
 カフカは、民族としての強固な存在感をもっていた東方ユダヤ人、正統ユダヤ教徒には属していない。同時に、ユダヤ人として、キリスト教的世界にも属しておらず、またドイツ語使用者として、チェコ人でもなければ、ボヘミア・ドイツ人でもなく、さらにボヘミアプラハ)生まれとして、オーストリアにも属していなかった。多くの世界に少しずつ属しながら、そのいずれにも完全には所属しない、生まれながらの「異邦人」であった。いかなる世界にも所属できない異邦人であるということは、存在を喪失しているということ、存在の零地点に「流刑」されているということにほかならない。
 掟という門を通ってしか世界に入る道はない。しかし、異邦人には掟がわからない。掟はその世界に住む人々には自明の約束だが、異邦人の眼には、まったく未知の、不可解な規則の体系として映るだけである。異邦人は掟を知らぬから、世界に入場することができず、いつまでも存在の零地点に「流刑」されている。そこで彼は、ついに自分に罪があるのではないかと考えはじめる。彼は自分の罪を探し求めるのだ。いわば罰(世界から締め出されていること)が先にあって、その後を罪が追いかけるのである。長編小説『審判』は罪が罰の後を追いかける物語といってよい。

 カフカにおける物事の順序、秩序の逆転──はじめに罰があり、その後、罪を探し求める。女性との関係も、初めに性的行為があり、それから恋愛関係が始まる。
 この『掟の門前』というテクストは、もともと『審判』の中で、ヨーゼフ・Kがファイト大聖堂とおぼしき場所へでかけて、そこで教戒師から聞かされる話として設定されている。従って『掟の門前』のテクストは、引用符に囲まれて、僧侶(教戒師)によって語られる。このテクストは「掟」の「門」について語りながら「掟」そのものについては何も語らない。ましてや「掟」を宰領しているはずの神については、およそ示唆することもない。「田舎からやってきた男」とは、ユダヤ人と考えられる。門衛はチェコ人であることは、まず間違いない。この小品は、チェコ人によってユダヤ人が裁かれるという、『審判』の隠された構造を浮かび上がらせているとも考えられる。

プラハの街とジャック・デリダ
 デリダは、一九八一年末にプラハで逮捕された。空港の税関で、麻薬が発見されたからだと言われるが、逮捕の真の理由は、デリダがその時反体制グループのセミナーに参加したからだと言われている。逮捕時デリダはちょうどカフカの『掟の門前』を読んでいて、掟ないし法の「起源」について考えていた。     
  
 デリダ《「掟の門前」解釈》─「来たるべき掟」のエクリチュール─    
 道徳律はそれ自体としては現われることは決してないが、道徳律こそ尊敬の念を惹き起こす唯一の原因であり、尊敬の感情は道徳律にのみ由来する。(カント)
 掟の審級はいっさいの歴史性、いっさいの経験的物語を排除し、掟の合理性は超越論的なものを含め想像力や虚構とはいっさい無縁だと思われる。
 掟が掟である限り、それはいかなる物語も許容してはならない。掟が絶対的権威を付与されるには、掟は歴史も起源ももってはならず、派生関係が可能であってはならない。これが掟というものの掟である。純粋道徳性は歴史を、内在的歴史をもたない。これがカントがわれわれに喚起している最初のポイントである。
 したがって、掟について物語が語られるとき、その物語は掟の周辺の外的状況、外的出来事に及ぶにすぎず、せいぜいのところでも掟の顕現の仕方に関わるにすぎない。物語は、結局接近不可能なものの物語でしかない。
 『掟の門前』とは、この接近不可能性、物語への接近不可能性の物語であり、不可能な物語の物語である。
 Vor dem Gesetz という表現は、「掟が現前している前で」という風には受け取れない。田舎から来た男は、掟の前に立ってはいるが、決して掟には「直面」していないのである。掟それ自身は、決して現前しないからである。
 入門の許可は一見すると拒否されているように見えるが、「しかし今はだめだ」という言葉が示すように、実は遅らされ、延期され、遅延されているだけである。ここからデリダは、カフカの掟は差延の掟であるという。
 掟については、われわれには何も言われていない。掟が何なのか。誰なのか、どこに見出されるのか。それは物なのか、人なのか、言葉なのか、声なのか、書かれたものなのか。こうしたことは、分らないままである。
 門番は複数の門ではなく、単数の(ひとつの)門を守っている。彼はこの特別な門の単一性を強調する。掟は多様性でも、また人が思うような普遍一般性でもなく、掟は常に一つの個別的な表現なのであって、そこにこそカント哲学の洗練がある。門番が守る門はおまえにしか関係しない。それは唯一無二であって、特別おまえだけに宛てられており、定められているのである。その男が自分の終わりに辿り着くことはできるが──彼はもうすぐ死ぬのだから──しかし目的地には辿り着かないことを、門番は、男に言いわたす。男は自分の終わりには辿り着くが、辿り着かないことに辿り着くという物語の終末は、次のような言葉で終わる。「門番は、男の死期が迫ったのを見てとり、遠くなっていく耳にも届くように大声でどなった。『ここではほかの誰も中に入ることはできなかった。これはおまえだけのための入口だったのだからな。さあわしは行くぞ、そしてこの門を閉める。』」
 テクストは、読解不可能性の裡で閉じられる。テクストは、物語自体を超えて同定し得るようないかなる内容も提示しない。同時に寓意的でもあり同語反復的でもあるカフカのこの物語は、明確な形での自己指示的な形式をもたないテクストであることによって、カフカ特有のエクリチュールを構成している。
 田舎の男は、掟への接近の個別性、特異性を理解することができなかった。
 『掟の門前』が語っている内容は、『審判』の中にすでにあらかじめ入れ子状に含まれている、と考えることも可能かもしれない。また逆に、『掟の門前』というテクストに『審判』の含意するすべてが逆─入れ子状に含まれているとも考えられよう。


 クラウス・ヴァーゲンバッハ著【中野孝次・高辻知義訳】『若き日のフランツ・カフカ』に描かれたプラハの街。
 ヘルマン・カフカ(父)は、チェコユダヤ系の地方プロレタリアートの出身で、プラハにおいてもヨーゼフ区のスラム街に住んでいたのに対し、ユーリエ・レーヴィ(母)は、裕福なドイツ・ユダヤ系家族の出身で、プラハでは旧市内広場の「スメタナ館」に住んでいた。
 高校時代までカフカは「ミヌタ館」という狭い環を出たことがなかった。対岸のラウレンチ山やホテク公園への日曜日の散歩を別にすれば、彼は「故郷の群衆が僕の周りを動き、僕の目を紛らせた」この円周の中に閉じ込められていた。ドストエフスキーの場合と同じように、カフカの作品の中で自然がある役割を演じることはほとんどない。自然は決して大きな光景としては現われず、せいぜい筋や状況を映す鏡として現われるだけだ。プラハの古い、入れ子になった「通り抜け可能の」家々(Durchhaus)と、ぐるりを「パヴェラッチュ」と呼ばれるベランダに囲まれた狭い中庭、そしてプラハ「旧市内」の狭くて幾重にも折れ曲がっている小路、これらが幼いカフカにとっての唯一の印象に残る遊び場であった。
 高等学校(ギムナージウム)時代は、クライストに傾倒している。『審判』に着手する前に、『ミヒャエル・コールハース』を読んでいる。この時期に、グリルパルツァーとシュティフターも読んでいる。
 ボヘミア王国労働者災害保険局に勤めている間にカフカは北ボヘミア工業労働者の苦悩を知ることになる。第一次世界大戦前の数年、彼はしばしばチェコ無政府主義者の集会に出席している。社会主義への関心。
 世紀転換期のプラハは、約四十五万人の人口をもっていたが、この都会の中で、カフカはほとんどその最中央部、旧市内とヨーゼフ区(旧ゲットー)を離れなかった。「ある時私たちが窓からリング広場を見下ろしていると、そこらの建物を指さしながら彼が言った、“これがぼくの高等学校、向こうのこっち側を向いた建物の中にぼくの大学、そのちょっと先の左側がぼくの勤め先。この小さな輪の中に“──と彼は二つ三つ小さな輪を描いてみせて──„ ぼくの一生が閉じ込められているんです”。」
 互いに重なり合う老朽した家々、倒壊の一歩手前の状態の家々、建て増しに建て増しを重ねて、狭い路地をさらに狭めている家々、迷路のように曲がりくねった小路、明かりの入らぬ細い路地、薄暗い中庭。カフカは幼児期に体験したこの独特な世界を決して記憶から失わなかった。彼がヤノーホに語った言葉、 
「……ぼくらの心はまだあの実施された環境整理を受けつけていないんだ。心の中のこの不健康な古いユダヤ人街は、ぼくらのまわりの衛生的な新しい町よりもずっと現実的なんだ。目覚めたままぼくらは夢のなかを歩いている、ぼくら自身も過ぎ去った時代の亡霊なのかもしれない」は、深い刻印を印象に残す。
 カフカより二つ年下のエーゴン・エルヴィン・キッシュは、「通り抜けられる家」(Durchhaus)というプラハ独特の仕組みについて、公道を避けて通る可能性について書いている。「けれども探検旅行を志すわれわれ子供たちが表の通りを使うのは、二番目、いや三番目の出口をもった家々を探す時だけだった。必ずそんな家が見つかるということは、この町では保証ずみだった。これらの通り抜けられる家々も連続性の法則に従っていて、順ぐりにつながっていたから、そこでプラハの全市内を、このいわば陸路だけを使って歩きまわることができた。公道を利用しなければならないのは、ただ横断する時だけだった。」
 一九〇〇年には四十五万の住民中ドイツ語を話すのは、わずか三万四千人であった。プラハのドイツ人は「資本力」という点で重要な役割をもっていた。彼らは大ブルジョワとして、炭鉱の所有者、モンタン企業やスコダ兵器工場の重役、ホップ仲買人、砂糖工場、織物工場、紙工場の持ち主、銀行頭取であった。彼らの社会に出入りするのは、大学教授、高級将校、高級官僚たちであった。ドイツ人のプロレタリアなどはまず存在しなかった。二万五千人のドイツ人、プラハ人口のわずか五%が、活気ある社交生活を楽しんでいた。
 ドイツ人貴族および大ブルジョワと、社会的に「より低い」地位に追いやられているチェコ人の対立という状況の中での、ユダヤ系ドイツ人の立場はより複雑であった。ユダヤ人はチェコ人からは「ドイツども」として忌避され、ドイツ人からはユダヤ人として拒否されていた。
 カフカチェコ語への熟達によってばかりでなく、チェコ民族の民族的社会的事情への洞察の点で、リルケやヴェルフェルよりもずっとまさっていた。ヴェルフェルは、裕福な手袋製造業者の息子として、乳母や家庭教師を通してチェコ人と接触したにすぎない。カフカは数え切れぬほどチェコ人のデモや政治集会に参加したばかりでなく、チェコアナーキストの集会にも出ていたし、ほとんどがチェコ人である「労働者災害保険局」の従業員との親しい関係を通じて、はるかに強烈にチェコ民族と接触していた。
 「プラハユダヤ人の大部分が住んでいたのは、ある独特な島のような閉鎖性のなかだった……その範囲がしだいに狭められてゆく自然保護区域。ユダヤ人は……一種の自由意志によるゲットーのなかに生きていた……。」このようにアイスナーが、プラハユダヤ人の宗教的ゲットーから社会的ゲットーへの移住について語っているのは正しい。
 批評的究明と鋭い判断というユダヤ人の根源的な才能──ハイネ、マルクスフロイトアインシュタイン等に脈々と生き続けている伝統──は、いくつかの民族と宗教に絶えず挟まれた当時の状況のなかでも生き続けていた。
 最も激しく対立しながら同時に立場を交換しうる社会状況のなかでは、出来事に批評的距離をとることはほとんど不可能であった。これが疑いもなくカフカ文学の重大な重荷であった。彼の長編や短編に語り手の姿が欠けていることは、この囚われの直接の結果である。孤独と集団の境界からは、全体についての展望をうるのはきわめて困難だった。「孤独と集団の間のこの境界地をぼくはそれこそめったに踏み出したことがない、ぼくが居をかまえていたのは孤独それ自体のなかよりも、むしろこの境界地のなかだったのだ。」(カフカの言葉)
 カフカの言語表現を、若いプラハ派の文学にみられる没趣味性や、その言語上の混沌と言葉の惑乱に対比してみよう。
 たとえばグスタフ・マイリンクの『菫色の死』の中の一節。「奇異な彩色をされた、玉虫色に光る手のひら大の蝶が、魔術書のページを開いたように翅を広げて、静謐な花の上に憩うていた。」あるいはマックス・ブロートの初期の作品の一節。「童話めいたつぼみのようにオーケストラからまるい音が立ちのぼり、展開して金色にひびく盃となった。なかにきらめいているのはすばらしい美酒だ!」リルケの『マルテ・ラウリス・ブリッゲ』の一節。「──患者が彼女のまぶたのなかに緑色の痰を吐いたかのような、彼女の膿漏眼……」「……膿が開いた傷口からこぼれるように、笑いが彼女の口からこぼれた……」
 だがカフカの作品では、その最も残酷な場面、たとえば『流刑地にて』の処刑装置や刑の執行の正確な記述においてさえも、そこに支配しているのは言葉のこの上ない清潔さであり、このことはすでに同時代者の認めるところでもあった。カフカの、簡潔で冷たい、べたつかない、語彙の少ない、論理的に構築された言葉は、その目立つ特色としてつとに認識されているが、しかしそのプラハ派に対する一目瞭然の言語上の相違は、これまであまりにも無視されてきた点である。
 この点に関しては、クルト・トゥホルスキーの『ディー・ヴェルトビューネ』(一九二〇年六月三日)所収の書評「流刑地で」が参考になる。「ミヒャエル・コールハース以来これほどの力をもって同情というものを一切おさえたように見えるドイツ語の短編を知らない。……法外に冷たく、関心を殺して物語られている。……どんな問題ももっておらず、どんな疑いも問いも知らない。断乎としている、ちょうどクライストと同じように。」
 フリッツ・マウトナーは、プラハの一般的言語状況を次のように明確に表現している。「チェコの土着人口に取り囲まれたボヘミア内部のドイツ人は、紙のドイツ語を話す……そこには土から生まれた表現の充溢も欠けているし、様々な方言語法の充溢も欠けている。この言葉は貧しい。ここでは方言の充溢とともに方言のメロディーも失われてしまったのだ。」
 プラハには、言葉がつねに新たに生まれてくる源のドイツの民衆がいないのである。プラハのドイツ人は、ただ教養によってドイツ人であるにすぎない。
 チェコ語の影響によるドイツ語の貧困化。とりわけ語彙そのものの貧困化。
 「異なる言語体どうしのこの不幸な接触は……僕らの国々では、言葉の縁辺のこの絶え間ない劣悪化をもたらして、そこからさらに違う結果を生んだ。つまり、プラハで成長した者は、ごく幼い時からこのように腐った言葉の屑で養われてきたので、彼らは後になっても、彼らに与えられたすべての、最も適切な最も微妙な表現に、一種の反感、そう、一種の羞恥が生じてくるのをどうしようもなくなるのだ。」(リルケ)「気がかりな語の乱れ」(リルケの言葉)。リルケは、生涯を通じて、生まれ育った環境の言語の不毛を力づくで克服しようと試みた。
 カフカの言葉は、ほとんどすべての地方的影響から清められた彼独自のプラハ・ドイツ語である。「……中世ラテン語のような死語。言葉の生きた言い回しから離れた、不毛という意味で純粋な言語……これがカフカの伝達手段となった。正確で醒めかえった、しかし表現力に富み柔軟なこの言葉が……」
 ハインツ・ポリツァーは、次のように指摘している。
 「その実質からすればカフカの言葉は豊かではなかった。抑揚と慣用句の使い方の点で、いや語の選定においても、文法上の癖においてさえも、ここで支配しているのはあのプラハ・ドイツ語だ。隣り合うスラブ語やチェコ語によって、またプラハユダヤ・ドイツ語によって、たっぷりと色付けされた言葉だ。そしてまさにこの独特な色づけこそ、カフカの物語のイロニーを、地方色をすべてとり除いた高みにまで高めることに決定的に役立っているものなのだ。彼は、完全に純粋には使いこなせなかった材料から、ひとつの純粋な、完璧に統御された、彼だけにしかない独自な文体を作り上げたのである。」
 「カフカの散文には、わが身に気遣っている少年のような純血性がある」(フランツ・ブライ)。この純粋主義は、環境の言語上の混乱と腐敗に対する返答であるばかりでなく、同時代のプラハ人が彼とは反対に言葉の貧しさに対抗する手段だと誤解していたあの人工言語崇拝への拒否でもあるのだ。
 「フランツ・カフカは天から下された人、偉大なる選ばれし人である。そしてかかる時代と環境だけがよく、彼の天上的認識と彼の筆舌につくせぬ体験を、文学の鋳型に注ぎ込ましえたのだ……」(フランツ・ヴェルフェル)。
 「(『火夫』の)十六歳の少年カルル・ロスマンにはなにか元となるモデルがあったんですか」というヤノーホの質問に対して、「僕は人間を描いたのじゃない。僕は物語を語っただけだ。そして物語とは、形象(ビルト)、形象だけです」とカフカは答えた。