現代小説における時間(人物の意識の内部を流れる時間)の分析(その5)

 ヴァージニア・ウルフの「意識の流れ」の技法を分析するために引用されたテクストは、小説『燈台へ』(1927年)の第一部第五章の全文であるが、テクストの中でバンクス氏が登場する部分は、全文が括弧でくくられているが、これはなぜであろうか。バンクス氏に関わる出来事は、ラムゼイ夫人が別荘の窓辺に座って靴下の寸法を測っている現時点(いま----ここで)とは違う過去の時間に属しているからであろうか。常識的にはそう考えるべきかもしれない。しか、テクスト全体の描写の流れから見ると、別様の解釈も可能に思われる。ラムゼイ夫人の涙にしても、人々の噂にしても、すべてはラムゼイ夫人の意識に浮かんでは消えてゆく一連の事象にほかならないことはすでに見た通りであるが、バンクス氏をめぐる事象も、すべてはラムゼイ夫人の意識が生み出した想念として捉えることも可能なのである。つまりそれらは、ラムゼイ夫人の意識がバンクス氏に転移しながら紡ぎ出された観念連合なのである。
 このように見るとき、テクストの最終場面の描写に現われる表現「夫人の態度からは一瞬前のきびしさはぬぐいさられていた」(Mrs. Ramsay smoothed out what have been harsh in her manner a moment before ...) の持つ意味が納得できるのである。バンクス氏との電話でのやりとりは、実際にあった過去の出来事かもしれないが、ともかくラムゼイ夫人は、その電話での会話をきっかけにしてバンクス氏が彼女をどういう目で観ているか、彼女をどういうふうに評価しているかという点をめぐって、諸々の映像を紡ぎ出したのである。そしてラムゼイ夫人の美しさ、その魅力、その謎がバンクス氏の意識を通して確認されたとき、彼女の一瞬前の厳しい態度が軟化するのである。これらの事柄は、このテクスト全体をラムゼイ夫人の意識の流れとして解釈するときに、初めて理解されるのである。
 シュタンツェルの述語を用いて言い換えるならば、<映し手>としてのラムゼイ夫人の意識の中に潜む諸々の思惑や動機が、涙とか噂とかバンクス氏という形象の中に流れ込み、それらを媒介にして自らを語っているのである。しかもそれらによって、ラムゼイ夫人の本質がより明確に照射されるというよりは、ますます謎が深まるだけである。ここでは、シュタンツェルの言う語り手の<作中人物化>の逆転現象が起こっているといったらよいだろうか。すなわち、<映し手>の意識が語り手的な媒体(自然物とか他者)に転移し、それによって自分自身を語るという特殊な物語現象である。
 ところで、すでに分析したことからも明らかなように、靴下の寸法を測る動作と、それに関連した談話のやりとり、そしてジェイムズを慰めるために額にキスしてやる場面(テクストの最後の場面)までに要した時間と、物語に挿入された様々な登場人物の意識内容を読者が読むのに要する時間との間には、大きな開きがある。つまり、現実に生じている出来事が経緯する時間と、物語(語ること)に要する時間との違いである(ギュンター・ミラーの「物語る時間」と「物語られる時間」という概念参照。)一般に、人間の意識に去来する事柄の進度は、ほとんど瞬時といってもよいくらいに速やかに経過してゆくが、それを言葉によって表現し、他人に伝達する場合には、はるかに長い時間を要するのである。
 ヴァージニア・ウルフは、靴下の寸法を測るというような、ごくありふれた日常的な偶然の出来事の合間に、恣意的に絶え間なく流れる意識の内容を描写するという独創的な手法を編み出したのである。彼女は、意識の流れを描出するきっかけとして全く偶然の出来事を取り上げ、そして外的な出来事が経過する時間の束の間の短さと、その短い時間の間に移り変わり流れ漂う意識の戯れの夢のような豊かな内容を、鮮やかなコントラストとして提示したのである。つまり「外的時間」と「内的時間」との際立った対照である。
 テクストの中程で現われる描写「こんな悲しそうな顔をした人があるかしら」というラムゼイ夫人の顔の表情の描写をきっかけにして、三つの挿入がなされていることは、すでに見た通りである。第一番目は、「涙」についての憶測であり、第二番目は、人々の噂であり、第三番目は、バンクス氏の想念であった。これらは結局、「こんな悲しげな顔付をした人があったかしら」という主題、つまりラムゼイ夫人の謎という主題をさらに深化させようとする試みにほかならない。(ここで目指されているのは、謎の解決ではなく謎の深化である。)したがって読者の意識からは、一瞬たりともラムゼイ夫人の謎という主題が消え去ることはなく、最後まで脳裏に刻まれ続けるのである。

 この小説の第一部「窓」においては、さまざまな人物が登場してくるにもかかわらず、あらゆる人を魅了してやまぬたった一人の女性(ラムゼイ夫人)のことだけが(百数十ページにわたって)語られている。
 第二部の「時はゆく」では、十年の時の経過が孤島の別荘に与えた荒廃の様子が描写される。そして、ラムゼイ夫人の死については、ごく簡単に(副文章
一つで、まるでとうの昔に亡くなった、取るに足りない人物であるかのように)言及される。「ラムゼイ氏は、朝まだほのぐらい時、廊下をよろめき通りながら、
両腕をさしのべた。しかし、ラムゼイ夫人は前の晩、突然死んでいたので、さしのべられた腕はいつまでも、むなしくからのままであった。」
 第三部「燈台}は、十年後の燈台への船出の模様が描かれる。死んだ後もラムゼイ夫人は人々の想念のうちに生き続け、それらの想念は、想念についての想念となり、その戯れは果てしなく続いてゆく。
 エーリヒ・アウエルバッハは、この作品が与える一種の悲哀と虚しさの感覚について、次のように述べている。
「このテクストは、漠然とした、出口のない悲しみに満ちている。われわれは、ラムゼイ夫人の真実はどこにあるのか、知ることはできない。ただ彼女の美貌と生命力の悲しい空しさが、秘密の中から浮かび上がってくるだけである。われわれがこの小説を全部読み終えても、燈台行きの計画と実際に何年か後に実現された燈台行きとの間には一体どんな関係があるのかは、無言の謎として残り、ただ予感されるのみである------」(Auerbach, E. : Der braune Strumpf. In : Mimesis. 6. Aufl. Francke Verlag, Bern 1977, S. 488-514.)
 ウルフの『燈台へ』という作品の構成を見る限り、ウルフ自身が言うように、第一部と第三部にはシンメトリックな構成美があって、第二部がブリッジのようにそれらの二要素を繋いでいる。
 ウルフの物語り行為は、確かにジョイスのように壮大で激烈なものではないかもしれないが、反面比類なき程の女性的な優しさと内向性、そして繊細さに満ちている。
 ヴァージニア・ウルフを再度読む機会に恵まれたが、今回は彼女の文学が持つ「こわさ」というものも思い知らされた。E・アウエルバッハが見抜いたように、ウルフの「意識の流れ」による手法は、人間の本質を鋭く抉り出すと同時に、人間存在を無力で空虚なものへと変えてしまう危険も感じた。