『私の闘病記』

 2010年の10月末、かねてから計画中で楽しみにしていた大学時代の寮生活仲間4名との京都八瀬離宮での約50年ぶりの再会の後、年の瀬頃から体の不調を覚え、市民病院を訪れて検査を受けることになった。頻尿と排尿困難が明確な症状であったが、泌尿器科の担当の医師にこれまでの症状などを詳しく聞かれた後、内視鏡による診察ということになった。看護婦さんの指示で、下半身裸になって高くて大きな椅子に股を広げて半ば仰向け状態で座ることになった。今まで経験したことがないような姿勢を他人の眼の前に曝すということの意味を、その時初めて知った。右側の脇にはモニター画面も据えられていて、内視鏡で映し出される映像を見ようと思えば見ることができた。あらかじめ尿道内にはゼリー状の麻酔剤が注入されていたから、内視鏡尿道内に挿入されることにそれほど痛みを感じることはなかった。肉眼で見ればかなり大きく感じる内視鏡をペニスに挿入すること自体にビビってしまう人も少なくないと思われるが、私自身はそのこと自体にあまり萎縮することはなかった。
 膀胱内視鏡は三重構造になっていて、手術のときには血液で視界を曇らせないように大量の水を流しながら、電気メスで腫瘍を切除することは、後から知った。とにかく診断の結果、先生が言うには「これはありていにいって膀胱がんですね」ということだった。癌の告知には違いないのだが、あまりにもあっさりと告げられたので、私は拍子抜けしてしまった。担当医は、手術には大量の水を使うことや、市民病院には循環器系の診療科がないことを理由に、医療施設やスタッフの充実した大学付属病院を紹介してくれることになった。
 こうして(なんとなく予感はしていたものの)思いがけない病気が見つかり、1月24日に入院、26日に全身麻酔による手術を受けることになった。・・・・・・
 遥か遠くの世界へ旅をして、元の日常世界へ戻ってきた感じ。絶対的な睡眠ともいうべき麻酔から醒めると、すべてが終わっていた。頭上に見えた執刀医の笑顔が忘れられない。これまで馴染んできたつもりの世界から離れ、前の自分とは違った自分を見出している奇妙な感覚。
すべてが初めての経験であったが、手術後の経過もわりと順調で2月9日に退院した。執刀した担当医の話では腫瘍がかなり大きく肥大して、難手術で時間を要したが、癌の根が思ったよりも浅かったのが幸いしたようであった。担当医によれば、約1か月以上の間隔を置いて3月中旬頃に再度入院し、再手術(second look)をする予定であるとのことであった。2度目の手術といっても、最初に切除した部分が治癒しているかどうかを確認するために同じ個所を切除する手法であるから、あまり深刻に考える必要はないともいえる。ともかく執刀医が「Mさんは強運の持ち主ですね」と言ってくれたことが、奇妙に頭にこびりついている。
入院中は個室ではなく6人部屋に入っていたから、いろいろな病を抱えながら闘病生活を送る人たちに接触できたことは、得がたい人生勉強であったともいえる。
再度の入院が近づいてきた3月11日午後2時46分、ちょうど喫茶店に入っていた私は店内が突然グラグラ揺れ始め、食器類も棚から落ち、喫茶店の建物は平屋だったが地震の衝撃で倒れるのではないかという恐怖心に駆られ、思わず席から腰を浮かせ、外へ逃げ出そうとしたが、周囲の客たちから「危ないからやめろ」といって止められた。私の住む高層マンションの方を眺めたが、揺れている感じはなかった。ともかく、このような大きな揺れを経験したのは初めてであった。後で聞いたところでは、震度6弱ということであった。余震がその後も続き、自宅付近のモノレールの軌道を支える太い鉄の柱が今にも倒れそうな勢いで大きく揺れ、恐怖を感じた。
 メディアによって地震の情報が詳しく伝えられ、予想もできなかった未曾有の災害であることが徐々に分かってきた。その時以来、東日本大震災は、私の闘病生活と切り離しがたく結びつくことになった。手術後、以前の自分とは違う自分を見出した感覚を抱いたが、大震災は時間の経過とともに自分が生きる世界そのものが今までとは全く違う次元で見えてきたと言ったらいいだろうか。
 大震災に伴う原発事故について、テレビの解説者が「想定外の事故」と強調していたが、これほど自然の力、自然の脅威を無視した発言はないと思った。事故の責任は第一義的には電力会社、監督する立場にある行政にあったことは論をまたない。経済成長主義の路線に追随する御用学者、専門家の責任は決して免れ得ない。原発建設にあたっては、地元住民に杞憂といって安心させ、事故が起これば想定外というのは、あまりに無責任な、そして傲慢な態度である。
人智を越えた自然の猛威に対して、人間は謙虚になるべきことを思い知らされた。自然に対する畏怖の念を決して失うことのなかった19世紀オーストリアの作家A.シュティフターの言葉が、ふと思い出されてきた。
 3月16日午前10時T大学付属病院へ2度目の入院。病室は西病棟7階708号室。大震災の影響による東電の計画停電の関係で、当初17日に予定されていた手術が、急遽繰り上げて入院当日午後3時から行われることになった。初回に比べ麻酔も軽度の感じで、1時間半で手術が終了。手術から7日目にカテーテル除去。術後12日目に、担当医からsecond look の結果説明があり、切除した組織に異常は見られず、99%治癒しているとのことであった。今後の治療方針としては、ガン再発防止のためBCGの膀胱内注入を合計8回にわたって行なうとのことであった。統計的には、その処置で約80% 再発が抑えられるということであった。膀胱がんに関する手術や治療法の詳細な情報については、立花隆著『がん 生と死の謎に挑む』(文藝春秋の特に後半部が参考になる。
4月1日には退院が許され、その後は外来で再発防止のためのBCG注入を週1回ずつ受け、体力も順調に回復していった。ところが5月28日(土)親戚の法事を終えて帰宅したところ、40度の高熱が出て、身体がふらつき、歩行も困難な状況となった。翌日は日曜日であったが、T病院へ急患ということで電話をし、車で駆けつけた。折よく私の担当医が当直医だったので、即入院の手配をしてくれた。最初は意識も朦朧とし、手足が萎えた感じで、直立も歩行も困難な感じであったが、次第に回復してきたことは今でも覚えている。医師の診断では、高熱の原因は感染症とBCGの副作用とが複合的に作用した可能性が考えられるということだった。CRTの数値がまだ高いので、今しばらく入院加療の必要があるとのことだった。単なる統計的な根拠でガン再発防止にBCGが使われているが、患者個人の体質の差異とか考えると、BCGの副作用は本当は恐ろしいものなのかもしれないとそのとき直感した。
今回の入院では窓側のベッドだったので、毎日外に広がる景色を眺められるのが慰めになった。東大病院のように上野・精養軒のような美しい遠望ではないが、深い緑の木立の中に修道院のようなたたずまいを見せている職員寮が、私のお気に入りだった。夕方の回診の時にいつもにこやかに容体を聞いてくれる医師とも、長い入院生活で深い心の繋がりが生まれたようだった。
余震で病棟が揺れたり、軋んだりする度に、東北の被災地に生きる人々のことが思いやられた。自分の病気と震災とが一体となって、今までの自分が変わったこと自体は何の不思議でもなく、東日本大震災は生きることの意味そのものの変革をもたらしたのであった。原発事故という誰も予想し得なかった悲惨で残酷な事態が、われわれ日本人のすべてにのっぴきならない決断と覚悟を迫っているような気がする。


           病室からのスケッチ