≪中欧論≫

中欧論≫
 

中欧」とは何か?──新しいヨーロッパ像を探る── (『思想』2012年 第4号, 岩波書店) を読む
 
 これは数多くの研究者による論文を集成した特集であるが、正直なところ読めば読むほど中欧像が茫漠として見えにくくなる。
 難解ながら読み応えがあるのは、この特集に収められた次の論文である。
それはヨゼフ・クロウトヴォル氏の論考「中欧の困難さ──アネクドートと歴史──」である。氏は中欧を西欧の歴史性と東欧の無歴史性の中間に位置する非歴史性(不条理な歴史性)と捉えている。つまり西の歴史の動態的原理と東の歴史の静態的原理の中間地域として捉えている。氏は論文全体を30章に細分化し、中欧を従来の伝統的な地政学的な視座で捉えるのでなく、中欧の本質を文化の多様性、不条理性という観点から捉えている。言語的な多様性と複雑性、歴史的な出来事でなく無数の凡俗な日常生活の細分化された断片や、切り子細工のように複雑で込み入った多面体の様相を文学・文化という側面から裁断している。
  
中欧という概念は、ハプスブルク帝国なしには生まれなかったろう。ハプスブルク家は、中欧地域の混沌とした状況を利用して、巨大な国家を創り上げた。チェコ人、ハンガリー人、ドイツ人、ポーランド人、ルーマニア人、ガリツィアのユダヤ人、ウクライナ人、クロアチア人といった多数の異なる諸民族が君主国の一つ屋根の下に入ることになった。
 西と東と中央の部分に分けられたヨーロッパという概念は、メッテルニヒによって創り出されたものである。1814年のウィーン会議によって、ヨーロッパに力の均衡をもたらし、東と西の間に、扱いにくい中欧のくさびを打ち込むことによって、ヨーロッパの平穏を保持しようとするものであった。中欧は、全ヨーロッパの政治的状況によって歴史的に変化する混成体であるという点で、地政学的な概念であることを運命づけられていた。「オーストリアが存在しなかったとしたら我々はそれを創り出さねばならなかったであろう」というパラツキーの有名な主張は、中欧の連邦的な編成がヨーロッパに恒久的な平和を保障するものであり、パラツキーがロシア帝国の増大する権力に脅威を感じ、ロシア帝国の危険性を明確に意識していたことを物語っている。
 パラツキーは、オーストリア帝国の国境を離れた小さな国家、小さな共和国が主権を維持できる可能性は小さく、いずれも危うい存在であることをはっきり認識していた。彼は民族問題の連邦的解決を提唱し、オーストリア帝国の解体を望むことなく、世界的なロシア帝国へと肥大化する愛国的な汎スラヴ主義的幻想をきっぱりと拒否した。彼の先見の明のある地政学的判断も、第二次世界大戦によって決定的な状況の変化を蒙ることになった。鉄のカーテンがヨーロッパを西欧と東欧に厳格に分け、中欧地域も東欧に組み入れられた。オーストリアはひっそりと中欧から離れて、西欧と結合した。古きヨーロッパの民主主義的概念は、決定的に崩壊した。ヨーロッパ政治は、これまで知らなかったような原理的対決の性格(冷戦構造)を帯びた。

中欧の困難さ、あるいは分かりにくさを考察するにあたって、最も重要な分析の材料となるのは、ハシェクの世界的な滑稽風刺文学の傑作『兵士シュヴェイクの冒険』(栗栖継訳)である。
中欧を支配するのは大きな理念ではなく、小さな状況である。ここにはユーモアはあるが、熱狂はほとんどない。歴史のパノラマは、一目で見通すことはできない。あまりにも多くの細部が、重要な細部への注意をそらすのである。これが中欧の基本的公式である。地方的な小さな風俗画ばかりで、大きな歴史的叙事詩はないのだろうか? そもそも中欧で長編小説を作り出すことは可能なのか? ハシェクは、逸話の上にさらに無数の逸話を積み上げる方法で、凡俗さ、グロテスク、アネクドートの巨大な山を作り上げ、状況全体を描き出した。
シュヴェイクは、歴史的にも文学的にも怪物である。『シュヴェイク』には最低限の出来事しかなく、大量の凡俗でグロテスクな細部がある。戦争でさえも、むしろ背景の問題、二次的な問題でしかない。サラエボでフェルディナント大公が銃殺され、オーストリアハンガリー二重帝国がセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発したが、リューマチを患っているシュヴェイクは車椅子に乗り、松葉杖を振り回しながら「ベオグラードへ! ベオグラードへ!」と叫びながらプラハの街路を進んで行く。このシュヴェイクの出征について、「プラハ広報」紙には次のような記事が出る。

「負具者の愛国心  昨日の午後プラハの主要街を通った人びとは、この偉大かつ重要な時局に当って、わが国民もまた年をとられた皇帝陛下に対し忠誠のこのうえない手本を示すことができる、ということをいみじくも物語る場面を見ることができた。……このチェコ国民の息子は、負具の身であるのを物ともせず、皇帝に自己の命はもちろん財産まで捧げるため、自ら進んで兵役につくことを申し出たのである。彼の<ベオグラードへ!>という叫びはプラハの街まちでさかんな反響を呼んだのであるが、それこそプラハ市民たちが祖国と皇帝に対する愛の模範的な手本を示しつつあることを証明するものでなくて何であろう!」(岩波文庫、第一巻、113頁)

 「皇帝陛下のためにからだが八つ裂きになるまでご奉公申し上げるつもりであります」とか、「フランツ・ヨゼフ皇帝万歳!この戦争はわれわれの勝ちだ!」という文句を並べたてる兵士シュヴェイクは、第一次世界大戦の真の理由が何であったか本当に分かっていたのか、この戦争の目的が自分にとってどのような関わりをもつのか、シュヴェイク自身本当に理解していたのかは誰にも分からない。クンデラも指摘するように、誰ひとりとしてシュヴェイクが愚物なのか道化なのか確信をもって言うことができない。ハシェク自身もまたわれわれ読者にそのことは言わない。シュヴェイクが体制順応的な愚言を喋り散らすときに何を考えているのか、われわれ読者は決してそれを知ることはできない。
 プラハのビアホール「ウ・カリハ」には広告用の看板として、今でも小柄で丸々したシュヴェイクの姿が見えるが、そのような形姿を想像したのはこの本の有名な挿絵画家ヨゼフ・ラダであって、ハシェクのほうはシュヴェイクの身体的な外見について、ただの一言も述べていない。そしてわれわれは、彼の私生活についても何ひとつ知ることはない。

 ハシェクの天才的な小説が描き出す第一次世界大戦のパノラマ的光景を満たすのは、細かい生活の細部、逸話、グロテスクなエピソード、アネクドートである。生き永らえているビーダーマイヤーの退化した地方的凡俗さは、歴史の中へ引き入れられ、小さな人間の日常が、戦争の出来事のさなかにある。小さな環境に生きる中欧の人間は、あえて過激派になることはできない。中欧のビーダーマイヤー的な安穏で矮小な環境が生み出すものは、壮大な叙事詩ではなく、せいぜいグロテスクな逸話、笑劇、人形芝居、酒場のお喋り、パロディーである。
 中欧的なメンタリティーの美徳は、穏健な用心深さと慎重さである。ドイツのように歴史が英雄的な形態をとらない中欧には、確かにコミックとユーモアのセンスは横溢しているものの、抑鬱とメランコリーの気分が打ち消しがたい底流となっている。
 チェコの文芸批評家で文学史家のフベルト・ゴルドン・シャウエルのとって、最高の価値は文化であり、民族は文化によって測られるものであった。自らの文化があることを示した民族だけが、存在理由を持つのである。中欧の二人の天才作家─フランツ・カフカヤロスラフ・ハシェク─は、どちらも典型的な表現主義者ではないが、表現主義的な時代潮流を抜きにして二人を考えることはできない。この二人は、中欧的存在の先鋭化された両極であり、結論的に言えば、メランコリーとグロテスクの対極的な交差にほかならない。中欧表現主義は、ドイツのそれとは異なる性格を持っている。すなわち中欧表現主義は、はるかに複雑な内的構造を持っており、それほど仰々しくなく、細部により大きな興味を抱き、偉大で強力な思想よりも精神活動の細々した事柄に関心を寄せる。表現主義は、ダダとか実存主義といった20世紀の対立する諸傾向を先取りしており、カフカハシェクの対立も、そのような当時の時代の二つの選択肢が徹底して実現されたものと考えることができる。
 1915年ロシア軍の捕虜となったハシェクは、その後ロシア革命に参加し1920年プラハに帰還して、1921年から22年にかけて『兵士シュヴェイクの冒険』を執筆する。同時期にカフカプラハで生活していた。第一次世界大戦以前の中欧では、さまざまの民族や言葉や思想が混じり合っていた。国家語のドイツ語と並んでチェコ語ハンガリー語ポーランド語、イディッシュ語が話されていた。どの社会階級ないし社会集団も、自分たち自身の言語を持っていた。生活は一歩ごとに、見通せないほど多くの細部を示していた。カフカガリツィアからやってきたイディッシュ語劇団の芝居見物にしばしば通ったといわれる。彼はもちろんチェコ語にも通じていた。多言語的な能力のお陰でカフカは勤務先の労働者災害保険局の事務仕事をきちんとこなし、そのために兵役を免除されたといわれる。
 言語的な壁が障害となって、チェコ人とハンガリー人はどちらもオーストリア帝国に所属する身でありながら、ハシェクのこの作品の中ではしばしば罵り合い、殴り合いの大喧嘩をする。オーストリア=ハンガリー二重帝国(いわゆるアオスグライヒ体制)は、ハンガリー人の民族主義的な要求をかなり受け入れたから、チェコ人のように複雑な感情に悩まされることはなく、ハンガリー人はハプスブルク帝国には終始親和的な態度をとり続けたといえる。このような同じ帝国内の民族的対立は、ハシェクの作品でも、滑稽でグロテスクな逸話を生み出している。こうした逸話はプラハの酒場で何度も繰り返され、狡猾に磨かれ洗練され、人びとの哄笑を誘い出す。
 シュヴェイクは、長年外国の勢力に支配され抑圧されてきたチェコ人の面従腹背の精神と方法を誇張し、デフォルメし、滑稽化して創られた人物像であるが、だからといって、この作品を単純に反戦文学、抵抗の文学と割り切るのは間違いである。この作品には上に述べてきたチェコ人特有の屈折した複雑なメンタリティが隠し味となって流れ、作品の質的価値を高めている。善良な兵士シュヴェイクの言動が、善いか悪いかを判断することは極めて難しい事柄である。シュヴェイクの本当の内面を一体誰が知ることができるだろうか。兵士として出征する前に、民間人として犬の売買をしながら生計を立てていたシュヴェイクは、確かに胡散臭い感じは付きまとうものの、市民としては分類しがたい人物であり、いかなる社会階級に属するかも定かでない。彼はいかなる階級意識も持たず、彼の道徳は状況に順応する。ハシェクは戦争の概念をひっくり返し、不条理な歴史を描く。戦争はシュヴェイクにとって歴史ではなく、ナンセンス、つまり非本来的な「歴史」なのである。「歴史感覚」を欠いた彼が、客観的な戦争の出来事に与えるコメントが、つまり逸話なのである。彼は行きつけの飲み屋に座ってビールを飲み、お喋りをし、自分の考えた「逸話」で人を楽しませる。われわれはシュヴェイクを、ありのままに、事実として、怪物として受け取らねばならない。
 フロイトの理論によると、ユーモアやジョークはいずれも角からの眺め、つまり斜に構えた見方が出発点となる。葛藤、人間同士の正面衝突に至らないようにするには、物事をやや脇から見る必要がある。ここには、ある程度の狡賢さ、意地悪さ、狡猾さがあるが、認識や賢さや知恵の片鱗もある。ユーモアは、人間の攻撃性を緩和する。アネクドートには、語る人間と、聞く人間と、さらに語り広めていく人間が必要である。アネクドートは、その意味で集団意識の産物であり、言い換えれば、集団的メディアの作品であり、本質的に匿名性を帯びたものである。フロイトの理論は、ほかならぬ中欧で生まれたことも銘記しておかなければならない。
 ただ喋って楽しむという語りの愉しみから生まれるシュヴェイク的なジョーク、逸話、酒場や商人たちの下世話な戯れ言は、繰り返され、その文学的な構造が練り上げられ、落語のような最後の落ちの効果が生まれる。こうして集団の持つ意識や無意識が、経験全体として働き、アネクドートの傑作が生まれる。
 プラハの知識人と呼ばれるインテリが、もしもジョークと逸話の天才であるシュヴェイクとプラハの酒場、たとえばウ・カリハで同席することになったら、どのような状況が現出するであろうか。おそらく気まずい沈黙が支配するか、シュヴェイクの巧妙な弁舌をもってしても相手を笑わせることはできず、いかなるコミュニケーションも生まれないであろう。もし同席相手がヨーゼフ・Kのような人物だったらどうだろうか。常に不安な状況でドイツ語の表現の純粋さを求めていたカフカのメランコリーは、陽気なユーモアとグロテスクな逸話がポリフォニー的に共鳴し合うシュヴェイクに嫌悪することはなかったにせよ、カフカにとってはあまりにも異質な存在であったろう。
 ハシェクのシュヴェイクは、シュヴェイクがルカーシュ中尉の従卒であったという点で、時々ドン・キホーテサンチョ・パンサと比較される。シュヴェイクが民衆の代表者でないとすれば、ルカーシュ中尉も権力の代表者ではない。ルカーシュの権力は単に見かけだけのものであり、彼は単に権力の執行者にすぎない。

  ルカーシュ中尉は、崩壊に瀕しているオーストリア帝国の典型的な現役将校であった。士官学校の教育を受けたおかげで、彼は両棲動物になってい
 た。人のいるところではドイツ語で話をし、また書き物もドイツ語でしたのだったが、チェコ語の本を読み、チェコ人ばかりの一年志願兵の学校で教えるときには、打ちとけた調子で彼らに言うのであった。「われわれはあくまでチェコ人さ。もっともこんなことをだれにも言う必要はないがね。わたしもチェコ人なのだよ」
  彼はチェコ人であることはまるで秘密結社のようなもので、そっと敬遠しておくのがいちばんだと思っているのであった。
  しかしこの点を除くといい人間で、上官たちをこわがらず、演習のときは自分の中隊の面倒をよくみた。いつでも手ごろな納屋をあちこちに見つけて、部下の兵士たちを気持ちよく分宿させ、また多くもない自分の給料の中から、兵士たちにビールを一樽おごることもよくあった。(岩波文庫、第一巻、311頁)

ルカーシュ中尉は、南ボヘミア地方の農民の家の出で、ルカーシュ中尉のすべての良い性質は、彼の農村の出自、黒い森と養魚池の間で過ごした少年時代に由来するものだと、ハシェクは述べている。この意味で、疑いもなくルカーシュは、シュヴェイクよりも民衆に近い。農民なのか、それとも兵士なのか、チェコ人なのか、それともオーストリア人なのか、民衆に属するのか、それともより高い特権階級に属するのか? こうした問いのすべてがルカーシュの優しさと煮え切らなさの根源とも言える。ドイツ語で話すがチェコ語の本を読む将校は、内面的に分裂した人物たちの一人である。ただ軍隊の規律だけが、この人物を一つに保っている。ルカーシュは、チェコ人の伝統的な消極的抵抗が生んだ不条理な犠牲者である。オーストリア=ハンガリー帝国の将校であるが、なぜ自分がそうであるのか、彼は本質的に分からないのである。ドン・キホーテサンチョ・パンサを必要としたが、ハシェクの作品においては事情は逆であり、シュヴェイクがルカーシュを必要とするのである。つまり使用人と主人の関係が、決定的に逆転しているのである。
 
 最後に二人の典型的な中欧人が辿った運命について触れておこう。
  ヨーハン・フォン・ホルヴァートの血管にはハンガリークロアチアチェコとドイツの血が流れていた。彼自身、自分のことを「典型的な古いオーストリア=ハンガリー的混血」と呼んでいた。学校時代に教育語を4回変え、ほとんど毎学年を別の町で終えた。彼の父は国家の高級官僚だったので、指令に従って家族は住む場所を移動しなければならなかった。その結果、ホルヴァートはほとんどどの言語も完全には身につけなかったが、どの言語も知っていた。最も逆説的な状況は、ドイツを訪れたときであった。ドイツ語は彼の母語だったにもかかわらず、伝統的なゴシック文字で印刷されていたので、新聞さえ読めなかったのである。
 
 オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊は、中欧人たることを運命づけられた世代にとっては、過酷な心理的衝撃を意味し、何物にも代えがたい一つの文明の喪失の感覚を心に刻みこんだ。
  ヨーゼフ・ロートは、すぐれた語り手であるだけでなく、卓越した状況分析家でもある。小説の登場人物の抱える諸問題は、つまるところ彼自身の諸問題でもある。彼はガリツィアで生まれ、リヴォフで学び、ウィーンで暮らして物を書いた。第一次大戦が彼に最初の打撃を与え、ファシズムが第二の打撃を与えた。故郷なき亡命者は、1939年5月27日にパリの貧民病院で死んだ。
  ロートは、ウィーンを輝く蜘蛛にたとえたが、その蜘蛛は王領の隅々にまで広げた強力な黒黄色の網から、活力の源となる汁を吸っていた。皇帝の居住する都市の光は、他の諸都市のおかげで輝く。「ハンガリーの草原のジプシー、ポドカルパチア地方のフツル人、ガリツィア地方のユダヤ人の馭者、私自身の親戚、シポリエ地方のスロヴェニア人の栗売り、バーチカ地方のドイツ人のタバコ栽培家、ステップの馬飼い、ボスニア・ヘルツェゴヴィナイスラム系住民、モラヴィアのハナー地方の馬商人、クルシュネー・ホリ地方の織屋、ポドリー地方の粉ひき、コサックを売買する商人。彼らは皆、オーストリアにとっての寛大な扶養者であり、貧しければ貧しいほど寛大であった。当然のごとく自発的に犠牲に供された、あれほど多くの悲哀、あれほど多くの苦悩は、世界がこの帝国の中心を魅惑と陽気さと卓越性の揺籠と見なすために、必要だったのだ。」
  ロートは、オーストリア帝国崩壊の主な原因を、オーストリアを大ドイツ帝国の一部と見なす、ドイツの攻撃的なイデオロギーに見ている。オーストリアの本質をなすのは、中心ではなく周縁である。オーストリアの本質を養い、絶えず補っているのは、王冠の周縁にある諸領邦なのだ。中欧の民族的マイノリティは、本質的にオーストリアに背くことはなかった。ただ帝国内の国家民族であるドイツ人が、結果的に背くことになったのである。
  ロートは、オーストリア帝国の消滅のみならず、ヨーロッパの終焉も経験した。彼が死につつあるとき、オーストリア併合とチェコスロヴァキア解体はすでに終了し、ポーランド侵攻が準備されていた。
  ガリツィア生まれのユダヤ人であるロートにとって、皇帝フランツ・ヨーゼフは父親のような確かな存在であったが、オーストリア=ハンガリー帝国の消滅は、彼が持っていた唯一の祖国の喪失をも意味した。ロートは自らの作品(『ラデツキー行進曲』)の中で、帝国が没落していく状況を的確に分析しているが、ハシェクの『シュヴェイクの冒険』ほど陽気でグロテスクな笑いに満ちたものではないにしても、真の物語作家としての抑制された文体と暖かみと一抹のメランコリーをたたえた描写からは作品に登場する魅力的な人物像が浮かび上がってくる。