画文集「思い出バス120景」

 いやなんとも素晴らしい画文集が刊行されたものである。著者は、プロの画家ではなく、私のブログにも度々ご登場願っている作曲家飯沼氏である。彼は私の高校時代の同級生で、時に芸術論を闘わせる親友である。昔懐かしいボンネットバスの走る信濃の風景を描いた120景の中から、私の勝手な好みで3点だけを厳選し、コメントをさせていただいた。ボンネットバスといえば、発車の際の排気ガスとともに、あたりに漂った甘酸っぱいガソリンの芳香が、プルーストのマドレーヌの匂いのように、今でも嗅覚の記憶に鮮明に残っている。
まず「奈川渡館」という小さな旅館の絵であるが、ここはかつて私の同級生が住んでいた旅館である。その昔は梓川、奈川の清流が合流する山深い場所にひっそりと建っていたが、今は東京電力の大工事によって建設された「奈川渡ダム」の湖底深く没してしまっている。現在ダムの上を走る道路は、奈川方面と上高地方面の分岐点になっている。湖底に沈んだ旅館は、川辺に静かなたたずまいで建っていて、上高地とか乗鞍登山の帰り道、しばしの間くつろぎと安らぎを与えてくれたことを思い出す。満々たる水をたたえ、電力供給に貢献している現在の奈川渡ダムの威容にいくばくか敬意を表しつつも、水面下に沈んだかつての「奈川渡館」のたたずまいに限りない哀惜の念を抱くのは、画文集の作者である飯沼氏も同じであろうと思う。


     奈川渡館と「上高地行き」バス

 インターネットで「奈川渡館」を検索したら、信州大学理学部同窓会報13号(2009年)に掲載された文理11回生の書いた文章が出てきて、それによると昭和35年5月ダム建設が始まる前の梓川水系に関する基礎データ収集のために8名の学生が「奈川渡館」の2階を本部として調査にあたったことが書かれていた。当時の「奈川渡館」には館主とおぼしき親父さんと若い娘さんがいて、給仕をしてくれたそうである。会報の筆者が、今は立派に完成した奈川渡ダムの道を通る度に、ダムの底深く沈む運命にあった「奈川渡館」で過ごした日々を、青春のひと時の出来事として振り返っている文章が、なぜかとても心に沁みた。
画文集では、新旧二つの地図を重ね合わせて、ダム工事によって付け替えられた国道158号線の新旧の位置関係が分かる道路地図が載せられている。ある意味で、これはとても興味深い構想で、作製された新旧対照の地図からは、さまざまなことが思い浮かぶ。旧国道は梓川渓谷のほとんど谷底近くを走っていたことが分かるが、湖底に没した曲折の多い旧道に比べて、ダム建設によって山腹に新しいルートとして造られた隧道の多い新国道は直線的で、旧国道と著しい地形的対照をなしている。もちろん、新しい地図では、豊かに水を湛えた「梓湖」が鮮やかに視覚化されている。
余技の域をはるかに超えたこの画文集に収められた「絵と文」を、じっくり眺め読むとき、まさに著者が言うように、人生における様々な苦難や、作曲家としての仕事に纏わる幾多の苦境を乗り越えさせてくれた貴重な宝物であることを実感する。残り1枚の絵については、稿を改める予定。
最後に私事にわたる事柄を一つ。平成12年89歳で逝去した私の叔父は、教諭として長らく長野県下の小中学校に勤めたが、山登りが好きで何度も登った常念岳を心の柱としていたようだ。酒と煙草をこよなく愛し、頑固一徹、曲ったことを嫌い、正論を通す。その反面、人の良い、気弱さをにじませ、相手をこよなく大事にする、子供のような素直な心をもった愛すべき人間だった(長女の回想)。「低く暮らし、高く思う」という言葉を好んだ叔父は、定年後は短歌と畑仕事を趣味としていたようだ。彼の残した数多くの歌から二首。
「渓川(たにがわ)の瀬音を聞きてあけくれし奈川の四年(よとせ)懐かしきかな」
「故郷の幼き頃の清流はダムによどみて寂しかりけり」


     紅葉の島々谷を行く「白骨温泉行き」島々宿〜稲核間
 画文集・懐かしの松本電鉄「思い出バス120景」絵と文:飯沼信義(郷土出版社)
 (著者から3点の原画コピーをいただき、ブログ掲載の許可も得ていることを断わっておきたい。)