≪チェコ構造主義美学≫断想

  

  ムカジョフスキーは、文学テクスト分析の方法論上の出発点として、伝達の表現(伝達文)と詩的テキストを截然と区別し、たとえば「夕暮れになる」という表現が伝達文とみなされる場合には、受け取る者の注意は、記号としてのテクストと意味表現として指し示された現実との間の関係に集中する。つまりその表現が真であるか偽であるかということに、関心が集中する。
 しかしながら引用された発話(「夕暮れになる」)が、詩的なテクストにおける一文であると理解される場合には、その発話に対するわれわれの関係は瞬時に完全に変化する。その場合、われわれの関心にとって、その意味表現の真偽(表現内容が現実であるか非現実であるか)は全く問題とならず、その表現を取り囲んでいるコンテクストに対する発話の関係が、ひたすら関心の中心となる。
 ある報告の言語的表現を、もっぱら美的機能をもった文学作品であると解釈する場合には、聞き手(読者)にとって、報告された出来事が実際に起こったか起こらなかったかという問いは、全然問題ではなくなる。つまり物語られた出来事が真であるか偽であるかは、その決定的な意味を失い、もはやただ、著者が物語られた出来事を本当のこととして、あるいは虚構のこととして提示しているかどうか、そしてどの程度に、またどんな方法でそうしているかという事情が、作品の構造の重要な構成要素になる。叙述のこの種のニュアンスに基づいて、さまざまな芸術的傾向(ロマン主義とかリアリズム)、あるいはさまざまなジャンル(物語とかメールヒェン)の技法的な相違が生まれる。
  もっと具体的な例を挙げてこの事態を説明してみよう。たとえば、ドストエフスキーの『罪と罰』の読者を思い浮かべてみよう。ラスコーリニコフという学生についての事件が実際に起こったかどうかという問いは、読者の関心の外にある。だがしかし読者は、この小説から強い連関を感じ取る。もちろん小説が語っている関連、すなわち十九世紀のある時期に、ロシアのある場所で起こった出来事に対する関連ではなく、読者自身の身辺から知っている現実、読者自身が体験したかあるいは読者自身が体験するかもしれない諸状況に対する関連、そしてこの諸状況に伴っていた諸感情や意志の動きに対する関連である。   
  読者を呪縛した小説をめぐって、単に一つの現実が位置づけられるのではなく、たくさんの現実が積み重ねられる。作品が読者を深く捕えれば捕える程、読者の熟知している、そして読者にとって実存的に意味深い諸現実の領域が大きくなる。
  ここでムカジョフスキーが述べていることを分かりやすく言い直せば、記号としての芸術作品は、それが直接叙述している現実を直接的に読者に示唆するものではないが、しかし記号としての芸術作品は、読者の体験した、あるいは体験するかもしれない諸現実を、間接的に示唆しうる力をもっているのである。
  ムカジョフスキーによれば、音楽的表現は伝達を目指す傾向を持たないという意味で(音楽は、その本質から言って伝達しない)、非テーマ的芸術であるのに対し、文学は本質的に伝達の傾向を持つという意味で、テーマ的芸術である。このようにムカジョフスキーは、音楽を非伝達的・非テーマ的芸術、文学を伝達的・テーマ的芸術と区別したあとで、オスカー・ワイルドの『芸術家としての批評家』の一節を引用している。
  「わたしがショパンのどれかある曲を弾き終える度ごとに、わたしは自分が一度も犯したことのない罪を泣いているかのような感じ、またわたしが体験したことのない悲劇を悲しんでいるかのような感じがする。音楽はわたしにいつもこうした印象をよび起こすように見える。ある人間が自分の知らなかった過去を創造し、それを自分の涙に対して隠されていた悲哀の雰囲気で満たす。わたしは、ある男が全くありきたりの人生を送って来たのに、たまたま何かある不思議な音楽を聞いて突然自分の魂が、自分はそれと気づくことはなかったものの、恐るべき経験をしてしまいぞっとするような喜び、荒々しくロマンチックな愛あるいは大いなる諦念を知ったことを発見するのを想像することができる」。
  それはある人間が実際に出会うことはなかったものの、出会ったかもしれない経験である。音楽的表現は伝達はしないが、記号としての芸術作品である音楽は、われわれには想像もつかない多様な実際的関連を持ち、それは知覚する人間の人生体験の広い領域全体と強く結びつく。音楽の持つこの多様な実際的関連は、対象としては具体的な内容を持たず不明確であっても、聞く者に対して強烈な作用を及ぼすことを、ワイルドは文学的に表現しているのである。
  こうして、伝達機能一般が欠如しているかに見える(あるいは伝達それ自体を目的としない)音楽が、かえってテーマ的芸術(文学)よりも一層明瞭に記号としての芸術の特殊な性格を暴露する、(分かり易く言い換えれば)、文学よりも一層深い情緒や意味連関を伝える、というようなことをワイルドの言葉を借りて、ムカジョフスキーは述べているように思われる。<文中での引用は、ヤン・ムカジョフスキー著(平井正/千野栄一訳)『チェコ構造美学論集』(せりか書房、1975年)から。>