≪思い出に残る懐かしい町々≫

 1984年9月7日(金) 曇ときどき雨。Nürnberg発10時01分のIC(Max Planck)でHamburgに向かう。これがドイツ滞在最後の旅行である。Würzburg, Fulda, Bebra, Göttingenを過ぎ、12時38分Hannover 着、Göttingenより北への旅は初めてである。あいにく天気は悪く、空はどんよりと曇り、ときどき雨が汽車の窓をぬらす。Lüneburgを過ぎて、列車はHamburgに近づいてゆく。初めて見る北ドイツの風景は、やはり南ドイツとはずいぶん違うようだ。Lüneburg近辺では車窓からはHeideらしきものは見えなかったが、放牧されている牛も南ドイツのアルゴイ地方の牛とは違って、黒白まだらのホルスタイン種が多いようである。なんといっても空の色がまるで違う。雲もどんよりと重苦しく低くたれこめている。この感じはHamburgに近づくほどますます強まった。Hamburgの街の上に低くたれこめている灰色の雲は、低く街の上を覆って圧迫している感じである。14時25分、Hamburg Hbf到着。早速ホテルのEinzelzimmerを予約。駅から歩いて10分程のSt.Georg地区の繁華街のホテルの一室を斡旋してもらう。Steindammの通りに面したホテルで、名前は"Mercedes"であった。幸い部屋は裏の中庭に向いているので、通りの騒音から遠く、静かだった。ホテルの周辺は、土産物店、映画館、ゲームセンター、セックスショップ、レストラン、ホテルといった具合に種々雑多な賑わいを見せている。こうした雑居状態から受ける印象は決して好ましいものではない。ホテルには小生のほかに、数人の中国人(船員)、黒人などが宿泊していた。
北国特有の低くたれこめた空も、午後遅くには回復し、晴れ間がのぞいてきた。Sバーンで聖ミヒャエリス教会堂(St.Michaeliskirche)まで行き、エレベーターで塔の上にのぼる。塔からの市街の眺めは、美しかった。ハンブルク港に停泊している沢山の船が見え、エルベ河を行き交う船を写真におさめた。夕方には陽がさしてきたので、外アルスター湖畔を散歩する。対岸にテレビ塔や街の家並みがシルエットのように浮かび、夕陽が湖面に反射して輝いていた。

9月8日(土) 晴のち曇。UバーンでRathausへ出かける。Rathausは実に壮麗な建物である。市庁舎から内アルスター湖畔へ出て、美術館まで歩く。今日はLübeckまで足を延ばす予定である。
 
10時32分発Lübeck行の汽車に乗る。11時17分Lübeck着。Holstentor, Marktplatz, Rathaus, Marienkircheの順に市内を歩いて回る。今日は何かの祭があるらしく、Marktplatzは露店がたくさん並び、繰り出した人々でごったがえしていた。



Marienkircheは、北ドイツにおける最も美しく巨大なレンガ造りのゴシック様式教会だそうだが、内部を見学した後、Buddenbrookhausへ向かう。Thomas Mannが生まれ、少年時代を過ごした家であるが、現在は銀行になっている。破風造りの美しい家並を何枚か写真におさめる。Buddenbrookhausのあるこの通りは、聖マリア教会の裏手にあって、いかにもLübeckらしい美しい家並が続いている。Lübeck発14時30分のICでハンブルクへ戻る。その後、ハンブルク中央駅のすぐ近くにあるKunsthalle(美術館)を見る。ドイツ有数の美術館であり、展示されている作品の数も多かった。近代絵画の部では、ムンクピカソなどの絵が印象に残った。朝のうちは晴れていて、市庁舎や内アルスター湖など、ハンブルクの美しい街の風情を眺めることができたが、午後になって再び天気が崩れだし、厚い雲が空を覆ってしまった。それにしてもなんと重苦しい雲だろう。初めハンブルクに3泊して、Husumにも日帰りで行くつもりであったが、なんとなく気が滅入って予定を切り上げ、2泊のみで帰りことにする。残念ながら、Husum訪問は別の機会にゆずることにした。



            
夜VellmarのFranz家に電話をする。Frau Franzが電話口に出て、明日Nürnbergへ帰るのだと言うと、Vellmarで一泊してゆくように勧められた。ドイツを去る前にもう一度Fam. Franzに会いたい気持ちがあったので、誘いを固辞する気持ちにはなれず、結局明日Vellmarへ寄ることにした。

 9月9日(日) 曇ときどき雨。あいにく雨模様の天気だった。この天候では、Husumへ日帰り旅行をするのも億劫になったことだろう。Vellmarへ電話をいれて、Kasselへの到着時刻を連絡する。Hamburg Hbf8時30分発München行のICでKasselに向かう。11時11分Göttingen着。11時46分発のFrankfurt行D-Zugに乗り換える。12時35分Kassel着。Franz氏が迎えに来てくれる。Franz家には夏期講習でKasselの大学へドイツ語の勉強に来ているイタリア人女子学生が宿泊していた。この女子学生が宿泊する前にも、二人の女子学生を講習期間中泊めていたとのことであった。Franz家の娘Ulrikeも交え、皆で楽しく語り合う。イタリアの学生はVeronaの出身で通訳志望とのことで、ドイツ語もかなり達者であった。昼食にはGänsebratenが出て、たいへんな御馳走であった。Franz夫人には、この前6月に来た時にも、また今回もずいぶん御馳走をしてもらい、すっかりお世話になってしまった。とりわけ彼女が作るスープは美味しい。Vellmarの他の家庭にホームステイしている外国の学生たち(アメリカ、イタリア、ポルトガルなど)が訪ねてきて、Ulrikeの部屋でカセットを聞きながら賑やかにおしゃべりをしていた。せっかくの日曜日もあいにくの雨で暇をもてあまし、Franz家を訪ねてきたものらしかった。夜遅くまでFranz夫妻、Ulrike、イタリア人学生といろいろ語り合って楽しい一日であった。ハンブルクで味わったあの憂鬱な滅入るような気分も、Franz家での団欒によって一掃されてしまった。異国での独り暮らしにとって、親しくなった人々との語らいがどんなに有難いものであるか、身にしみて感じさせられた。

 9月10日(月) 雨。午前中Frau Franzとかなり長い間さまざまな話題にわたって語り合う。昼頃Franz氏が帰宅したので、雨の中を彼と少し散歩する。昨日もVellmarに着いたあと、雨の中をFranz氏と散歩をしたのであった。Vellmarの町もこれでしばらく見おさめになるので、雨にもかかわらず、町のたたずまいをしっかり心に刻みつけるべく、あちこちに眼を向けた。Kassel発14時13分の汽車で」Nürnbergへ向かう。Franz夫妻が駅のホームで見送ってくれた。予定を早め1時間早い汽車で発つことにしたため、Ulrikeに会うことができず残念だった。Ulrikeは、最初予定した汽車の発車時刻にホームへ駆けつけてくれることになっていた。Kassel駅近くのUlrikeが通学している学校まで車で行き、Franz夫人がUlrikeを探したけれども、あいにく見つからず、結局Ulrikeにもう一度別れを告げることは諦めた。Bebraで乗り換えのため下車。Würzburgでもさらに乗り換えて、午後6時頃Nürnbergに着く。

9月11日(火)、12日(水)  帰国の準備。小包を2個船便で発送する。
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右の写真はニュルンベルクの町。城壁で囲まれた街の様子が分かる。右上の写真の遠方に見える尖塔のある高台は、カイザ−ブルク。


 9月12日 Fam. Kostに招待され、2時間ほどお邪魔をする。コーヒーとケーキをご馳走になる。今日は息子さんは不在であった。Firenzeでイタリア語の講習を受けているとのこと。Fam. Kostと自然破壊・環境保護のことなどをテーマに語り合う。Frau Kostが自ら語ってくれたところによると、菜食主義者とのことであった。ご主人のKost氏もほとんど菜食主義に近い生活のようである。肉類はほんのまれにしか食べないとのことである。二人はGrüne Parteiに所属し、熱心に活動を行なっているという。特にFrau Kostは積極的な人で、自然破壊や環境保護の問題に深い関心を抱いている。帰り際に日本のことについて書かれた新聞記事の切り抜きをプレゼントしてくれた。
Kost氏が車で送り迎えしてくれ、船便の小包2個も車で郵便局まで運んでくれた。おまけにKost氏は、土産物を買うつもりの小生を繁華街まで送ってくれ、店の場所を教えてくれたり、買物の手助けをしてくれたのは、本当に有難く嬉しいことであった。親しい隣人のUhl夫妻は、旅行の滞在予定を延期して、なかなか帰ってこなかったが、ようやく今日帰宅したようであった。

 9月13日(木) 晴。今日はいよいよNürnbergを去り、Bietigheimへ向かう日である。居間の掃除をし、台所を片付け、不用品の始末をする。トランクの荷物もどうやら20kg以下におさえることができ、荷造りも無事に終わる。こちらで購入したフィリップスのラジカセは、少しもったいない気もしたが、結局家主さんのFrau Wallfahrerに贈呈することに決めた。いろいろお世話になったし、また8月31日に定年退職したばかりなので、その記念の意味もこめて、その旨Wallfahrere夫人に告げると、夫人は大変嬉しそうであった。お金を払うから受け取ってくれと言ったが、勿論これは小生からのプレゼントだからお金は要らないと答えた。
Frau Uhlが訪ねてきたので、下へおりていって挨拶をする。Uhl夫人は昨夜2回Wallfahrer家のベルを押したが、小生が出てこなかった(Wallfahrer夫妻は隣家に招かれて不在)といって強い調子でなじった。
  Sie sind böser Mensch!
小生もこれには少しムッとして、昨夜はシャワーを浴びていたこと、一度はベルの音が聞こえたが、Wallfahrerer家への来客と思い玄関まで降りてゆかなかったことなど言い訳をした。とにかく後でUhl家を訪れ、Uhl氏にも別れの挨拶をしたい旨述べた。午前中のうちにUhl家を訪問。Uhl氏は旅行の疲労からか身体の具合が悪く、寝巻姿で降りてきた。もっとゆっくり語り合いたかったが、Uhl氏も病気のため早目に切り上げ辞去する。Uhl氏は記念にといって、彼から借りていた本"Mögeldorf - Einst und Jetzt -"をプレゼントしてくれた。この本は欲しい本だっただけに、とても嬉しかった。
それにしてもUhl夫妻はなぜ滞在を延長したのだろう。Frau Uhlによると、滞在先で二人とも病気になったからとのことであった。
午後1時。Frau Uhlの車に荷物を積み込み、Frau Wallfahrerも同乗してNürnberg Hbfに向かう。車窓から4カ月間住んだ懐かしいNürnberg(Mögeldorf, Eisenmannstr.)の町に別れを告げる。二人の夫人はホームまで見送ってくれた。いつかまたNürnbergを訪れることを約して、二人に別れを告げる。

Nürnberg発13時58分の汽車でStuttgartに向かう。16時04分Stuttgart着。Bietigheimの駅でTomschi氏が待っていてくれた。Tomschi家を訪れるのは、これが三度目である。しかし明日はFrankfurt空港を飛び立って日本へ帰るのだと思うと、なにやら複雑な気分になる。
Tomschi家の気の置けない家庭的雰囲気は、どれほど心をくつろがせ安らぎを与えてくれたことだろう。その夜Mages一家も訪ねてきて、たくさんのお土産をいただいた。気持ちが高ぶって、その夜はなかなか寝つかれなかった。

 9月14日(金) 晴。8時15分Fam. Tomschiと共に車でFrankfurt空港へ向けて出発する。途中事故で渋滞したりしながらも、11時過ぎに空港に着く。途中反対側の車線で大事故があり、車が何キロにもわたって渋滞している光景にぶつかったときには、胸をなでおろし、こちらの車線でなくてよかったとホッとした。Lufthansaのカウンターでトランクを預ける。キャセイ航空のカウンターはなく、Lufthansaが業務を代行しているようだった。キャセイ航空の予約窓口でチケットの確認を受け、搭乗券をもらう。時間は少し早目だったが、Tomschi夫妻に東京での再会を約して別れを告げ、出発ロビーに向かった。13時45分の出発予定が大幅に遅れ、15時近くになってようやく飛行機はFrankfurt空港を離陸した。

 <注記:1984年5月から9月までDAAD(ドイツ学術交流会)の招待で、エアランゲン大学に短期間の研究滞在をした。本来は3カ月の滞在期間であるが、1カ月間予定を延長し各地を旅行した。本記録は、その時の日記を編集して、ブログにまとめたものである。編集上の都合で、記録は帰国直前の9月から始まっているが、いずれ5月に西ドイツへ向けて日本を出発するときに時間を戻して、この滞在記録を完成させるつもりである。>