その国

「その国」

 私が50年ほど前に奉職していた大学の同窓会から、ご案内の書状をいただいた。その同窓会は、「湘春の集い」とも称しているようである。毎年ご案内をいただきながら、まだ一度も出席したことはない。1964年4月から1967年3月まで当大学の教員として、その地に住んだ。たった3年間であったが、その街はいつまでも心の故郷のような気がする。

入沢康夫という詩人が書いた「その国」という詩が好きだ




















               



     その国

   その国は地図の上にひろがるだけの国ではない
   目にみえる国の上に目にみえない国が
   目にみえない国の上に目にみえる国が重なり
   作り終えた悲しみと作り切れなかった喜びと
   嫉妬と裏切りと反感と愛と別れと
   太鼓の音と人柱の悲鳴と松風の音が重なり
   その上に象牙色の巨人の死体が重なり
   しじみ色の湖が重なり
   化石のはまぐりが鳥になって田から田へ飛び
   その上に大きな川の流し出す
   砂鉄とりの子供たちのわかめ色の夢が重なり
   その上をさらに歳月の蝶たちが
   絶える間もなく鱗粉を撒き散らし
   踏み込むものをかならず迷わせてしまう国だ

   だから人はふつう
   きめられた観光コースしか歩かない
   コースをはずれると
   荒々しい赤い眼の神々に出くわし    
   金の弓から放たれた金の矢に胸板を射ぬかれて
   気がついたときには自分の胸に開いた岩窟の中を
   小舟に身を託して漕ぎわたっているかもしれない
 
   そして
   その国の人々の知っているその国は
   その国の人でない人々には見ることができない
   そしてその逆もおそらくはまた正しい

   (あのギリシャ生まれの一つ目のイギリス人は何を見たか)

   (あの巨大な生き物の十六の目は何を見たか)

   その国は人がふなべりを渡って
   鶏たちといっしょに海に沈む国だ
   思いがけない山の中に
   一面に魚のえらともみがらが落ちている国だ
   ひとたび去れば帰ることのできない国だ
     
   海岸の岩のあいだから
   死んだ母たちが声を合わせて私を呼び
   夕焼け色の牛に乗った死体が列をつくって
   幾十となく池から上がってくる国だ

      (入沢 康夫)