チェコ・アヴァンギャルド(続き)

 <東欧の想像力>2 ボフミル・フラバル著『あまりにも騒がしい孤独』を読んで 

 チェコスロバキアでは、共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクを中心とした改革運動「プラハの春」が、ソビエト連邦を中心としたワルシャワ条約機構の軍事介入で潰され1969年以降、グスターフ・フサークの下で「正常化」路線が進められ、反体制派とみなされた多くの国民が職場から追放された。第一身分=聖職者、第二身分=貴族、第三身分=市民、それ以外の民衆の上下が入れ替わり、大卒の教養人が労働者として働くようになる。自由派知識人は徹底的に弾圧され、言論の自由は奪われる。この小説の主人公ハニチャは、新聞雑誌などの故紙や書籍(古本、新刊本は言うに及ばず、発禁処分になった厖大な量の貴重本も含まれる)の山を水圧プレスで押し潰し、大きな紙塊にして処分する仕事に従事している。下水掃除人をしている二人の元科学アカデミー会員が一番の仲良しである。彼らはそこで働きながら、プラハの地下を走って交差している排水溝や下水道についての本を書いている。ハニチャはその本から「日曜日にボドババの下水処理場に流れ込む汚物と、月曜日のそれとは、全然違うことを知った。平日にはそれぞれ曜日の特徴があり、だから汚物の流動性をグラフにすることができて、コンドームを処理するための電力需要から逆算して、プラハのどの地区でベッドインが多くてどの地区が少ないかを確定する」ことを。でも、彼が一番感銘を受けたのは、クマネズミとドブネズミがちょうど人間と同じように全面戦争を行って、その一つの戦争はもうクマネズミの完勝に終わったという、学問的知見だった。けれども、クマネズミはすぐに二つのグループ、二つのクマネズミ党派、二つの組織されたネズミ社会に分裂して、ちょうど今、プラハの下のあらゆる下水道、あらゆる排水溝で、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている──どちらが勝者になり、したがって、傾斜下水道を通ってボドババに流れ込むあらゆるゴミと汚物への権利をどちらが獲得するかをめぐる、大クマネズミ戦争が行われている」ということだった。訳者の石川氏が指摘するように、このプラハの地下の壮絶なネズミ戦争は、地上の人間社会を痛烈に風刺する「下位テキスト」になっている。

 もう一つ、少し悲しいエピソードだが紹介しよう。それは僕(ハニチャ)が、恋人のマンチンカと田舎の「下酒場」のダンスホールポルカを踊る場面である。ダンスのテンポが速まるとマンチンカの髪に編み込んだ長いリボンと髪飾りが、水平にピンと張ってひらめくのが見える。レイディース・チョイスが始まる前、マンチンカは少し青ざめて、ちょっとの間座を外す。彼女が戻ってきて、二人が目まいがするほどの速さでポルカを踊り出すと、周囲の踊り手たちが嫌悪感をあらわにして二人から離れ、ついには二人だけになってしまう。マンチンカは座を外した時、トイレに入ったのだが、その田舎酒場の便所には、床板の穴にまで達する糞便のピラミッドが隠れていて、彼女は自分の長いリボンと髪飾りをその中身に漬けてしまったのだ。そしてダンスの遠心分離的運動で、周囲の踊り手たち全員に、糞便を撒き散らしてしまったのだ。以来彼女は「クソまみれのマンチャ」と呼ばれるようになった。以下は、少し長くなるが、作品から直接引用する。「マンチンカは、自分の名誉を保つことができずに、恥辱だけを担わなければならなくなったけれど、それは彼女のせいじゃなかった──というのも、彼女に起きたことは、人間的な、あまりに人間的なことだったからだ。こんなことを、ゲーテなら、ウルリケ・フォン・レーヴェツォフに許しただろうし、シェリングもきっと、自分のカロリーネに許しただろう。ただライプニッツだけは、こんな長いリボンと髪飾りの事件を、王室の恋人ゾフィーシャルロッテにまず許さなかっただろう。同じように、感受性の強いヘルダーリンなら、ゴンタルト夫人に許さなかっただろう……。」(42頁)