H.v.ホーフマンスタールとR.M.リルケのエクリチュールをめぐって(続き)

3.リルケの『マルテの手記』

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)は、1875年12月4日にプラハで生まれた。父ヨーゼフ・リルケは、陸軍士官を目指したが、栄達がかなわず、10年に及ぶ軍隊勤務から身を引いて鉄道会社に勤めた失意の人であった。しかしヨーゼフ・リルケの容姿は、マックス・ブロートの表現を借りれば、たくましい騎兵将校さながらの上品な伊達男であり、スマートな好人物であった。フィアと呼ばれていた13歳年下の妻ゾフィーリルケは、アルザス地方から移住してきたプラハの名家の出で、フィアの父親カール・エンツはボヘミア銀行重役として帝室顧問官にまで出世した人物であった。フィアは官吏の夫にしたがって、今まで住んでいたバロック様式の大邸宅である生家からつましい賃貸アパートに移る。フィアは結婚に託していた願いを、夫が経済的にも社会的にも何一つ満たしてくれないことに幻滅し、リルケが9歳の時に夫と別居することになる。フィアは、先に生まれて早死にした女児のかわりに、幼いルネを女装させて女の子のように育てた。
 リルケ自身、次のように語っている。
 「私の子供時代の家はプラハの狭い賃貸しアパートでした……ささやかな所帯は、実際には名もない小市民のそれでしたが、外見は豊かそうに装っていました。着るものも人目をあざむくのが肝要で、なにがしかの嘘なども当然とされていました。私がどうであったかは憶えていません。ともかくすてきにきれいな服を着せられ、学校に通うまでは女の子のような姿で歩きまわっていたのです9)」
 不幸な結婚をして、早々と人生に幻滅した「お嬢様」として失意に沈みながら、ごく稀な観劇の機会にのみ自らの社会的名誉心を満たし、普段は寡婦の大公爵夫人のように黒の喪服を愛用していたリルケの母親は、自分の流儀をあくまで押し通す強靭な意志力の持ち主であった。幼いルネに女装させたことと同様、彼女の生き方そのものが、一種の仮装であり演技ではあったことは間違いない。しかし、51歳で亡くなったリルケよりも5年先の80歳まで生き延びて、たとえ夢想としてであれ演技としてであれ、上流婦人としての矜持を保ち続けたのである。母親の確乎たる意志力は、ひとり息子のリルケにある意味で遺伝子的な影響をもたらしたことは否定できないであろう。リルケが母親に共感を抱いていたかどうかは別として、その詩業の孤独で妥協を許さない歩みは、まさに母親ゆずりの意志力の賜物としか言いようがない。
 リルケは早い時期から、母親にフランス語を学んでいる。そして自らのフランス的心性との関わりに強い関心を抱いている。父親の家系は文献的な証拠は残っていないが、ケルンテンの古い名門貴族の末裔であるという言い伝えがあり、リルケはその血筋に何十年にもわたってこだわり続けたといわれる。高貴な血筋に対するリルケの執着は、一族に世俗性、俗物性に対する反抗心の現われ、あるいはいかなる高貴さにも無縁であった一家の雰囲気を隠蔽しようとするリルケ的な演技とみることもできよう。
 1882年、リルケはピアリスト修道会の経営するドイツ系国民学校に入学する。そこはグラーベン通りとヘレン通りが交差するプラハの最高級地区に位置し、身分の高い、ドイツ語を常用する中流以上の階級の子弟たち(多くのユダヤ系にまじって、若干のプロテスタント系家庭の子弟も含まれていた)が通学していた。後にはエーゴン・エルヴィッシュ・キッシュやフランツ・ヴェルフェルも通学する。リルケは母親が学校の行き帰りに付き添っていたので、同じ学校の生徒仲間や、隣接校に通うチェコの少年たちとも付き合うことはなかった。こうして母親は、この年齢の少年にとってきわめて大切な社会への適応力を身につけることを遅らせ、さらにはプラハに生きるドイツ人という少数派、すなわち「孤立者」という刻印を息子に押しつけることになった。
 1886年、10歳のリルケは軍人の父親の意向もあって、ウィーン近傍のザンクト・ペルテン陸軍幼年学校に入学する。10歳にして母親の暖かい懐から士官養成校での粗暴な生活へと突き放された衝撃を、リルケはついに克服できなかった。この衝撃は、彼の生涯にわたる心の傷となった。1890年、リルケはメーリッシュ・ヴァイシュキルヒェン陸軍幼年実科学校に入学するが、1年後健康を害し、同校を退学する許可を得る。その後、リンツの商業専門学校に入学するが、1892年プラハに帰り、大学入学資格取得のための勉強をする。1895年大学入学資格を取得し、冬学期プラハ大学で美術史、哲学、文学の講義を聴く。1896年、ミュンヒェンに移る。
 ここに素描したように、リルケの出発点は恵まれたものではなかった。ホーフマンスタールやトーマス・マンのように教養豊かで裕福な上流市民家庭の出身ではなく、またシュテファン・ゲオルゲのように、早くから著名人たちとの交際に馴染んでいたわけでもない。リルケの初期の作品を読むとき、言葉の希薄性というプラハ特有の問題にぶつかる。ヴェルフェルが述べたように、そこでは「故郷をもたぬ」「無菌状態」の言葉、特殊なドイツ語とでもいうしかない特徴をもった言語が使われていたのである。プラハのドイツ語は、広い民衆生活に根ざした生きたドイツ語ではなく、一種の人工語であったことを、リルケ自身も歎いている。
 リルケの詩作の根本には、真の郷土というものがないと言われる。彼の無郷土性、異邦人性、あるいはコスモポリタン性はよく指摘されるところである。たとえばボヘミアをたたえた彼の初期の民謡を見てみよう。

   せつなくぼくを揺さぶる
   ボヘミアの土地びとのしらべ、
   それがひそかにしのび込むと、
   ぼくのこころは重くなる。

   じゃがいも畑の草むしりに
   子供がそっと口ずさむと、
   そのしらべは夜ふけの
   夢のなかにまで伝わってくる。

   いつかおまえがこの地を去り
   遠い旅路にあるときも、
   歳月をへて それは
   くりかえしよみがえるだろう10)。

 この民謡で歌われている風景は、彼が心から親愛の情をもち、血縁で結ばれたものとしての風景ではない。これは素朴な郷土愛とは無縁なものである。
 結局生まれ故郷の街に、彼を引きとめるものはもはやなにもないといってよかった。家族の絆にしても、親しみながらも距離をおいて暮らす父親との時折の出会いと、ウィーン暮らしの多い母親との文通ぐらいで、緊密な友人関係はなかった。リルケは1896年、ほとんど息がつまるような、重く澱んだ、悲痛な幼年時代の思い出が残るプラハの街を去り、ミュンヒェンへ移り住む。
 リルケはその後、自身の発展にとって重大な意味をもついくつかの運命的な出会いや体験をする。北欧の芸術家ヤコブセンとの衝撃的な出会いと作品への傾倒、ルウ・アンドレアス=サロメとの親交、二度にわたるロシア旅行、ロダンセザンヌの芸術との出会いである。
 とりわけヤコブセンの影響は決定的といえるもので、リルケの散文のスタイル、例えば『マルテの手記』に見られるような独特のスタイルを生み出させることになった。
 リルケのパリ時代の散文『マルテの手記』(1910)に、次のような一節がある。
Ich habe heute einen Brief geschrieben, dabei ist es mir aufgefallen, daß ich erst drei Wochen hier bin. Drei Wochen anderswo, auf dem Lande zum Beispiel, das konnte sein wie ein Tag, hier sind es Jahre. Ich will auch keinen Brief mehr schreiben. Wozu soll ich jemandem sagen, daß ich mich verändere ? Wenn ich mich verändere, bleibe ich ja doch nicht der, der ich war, und ich etwas anderes als bisher, so ist klar, daß ich keine Bekannten habe. Und an fremde Leute, an Leute, die mich nicht kennen, kann ich unmöglich schreiben. 11)
 今日、僕は手紙を書いた。そして、僕がここへ来てやっと三週間にしかならぬのに気がついた。ほかの土地での三週間、たとえば田舎で過ごす三週間は、たった一日と同じようなものだ。しかし、ここでの三週間はまるで数年のようだ。僕はもう手紙を書かないことにしようと思う。僕が別人のように変わったことを、誰かに告げる必要などあるだろうか。別人のように変われば、僕はもう昔の僕ではないのだ。以前の僕と別な人間であるかぎり、僕にもはや一人の知人もいないことは明らかだ。見知らぬ人々に、僕を知らない人々に、手紙を書くことは不可能だ。
 『手記』には、また次のような深く内省的な文章も見られる。
Verse sind nicht, wie die Leute meinen, Gefühle (die hat man früh genug), ─ es sind Erfahrungen. Um eines Verses willen muß man viele Städte sehen, Menschen und Dinge, man muß die Tiere kennen, man muß fühlen, wie die Vögel fliegen, und die Gebärde wissen, mit welcher die kleinen Blumen sich auftun am Morgen.12)
 詩は人の考えるように感情ではない。(感情だったら、年少の頃にすでに十分もっているはずだ。)詩は経験なのだ。一行の詩のために、多くの都市を、多くの人間と事物を見なければならない。動物たちを知らねばならない。鳥たちの飛翔を感じ、朝開く小さな花たちの仕草を知っていなければならない。

 マルテは、リルケ自身も言うように「完全に虚構化された人物」である。しかし、この人物は、物語と読者の間を媒介するような語り手ではない。一切の物語的な技法に頓着することなく、マルテはこの作品では「語り手」(Erzähler)としてではなく、むしろ「書き手」(Schreiber)としての役割に徹している。小説を読もうとしている読者への配慮を一切断念し、ひたすら自分自身のことを自分自身のために書いている。Ich-Erzählerという枠組みをとりながら、ここでは伝統的な意味での語り手─読者の関係は廃棄されている。『マルテの手記』のフィクションとしての形式は、書き手である主人公の故郷喪失者、放浪者としての深い孤独な生き方から生まれたものである。
 リルケ自身は、この作品に対して決して小説という概念を適用しようとはせず、単に『散文集』とか『手記』とか『マルテ・ラウリッツ』と呼んでいるだけである。『マルテ』の文体と構成は、因習的な読みの習慣と読者の期待するような内容を拒絶することによって、伝統的な物語芸術の価値を転倒させようとしたのである。リルケが古典的な語り手の概念とか物語の枠組みを放棄したのは、そのような理由による。『手記』が最初から読者のことを顧慮することなく書かれたのは、読者の意表を突くことによって読者に特別な注意力と想像力を喚起するための戦略であったといえる。
 リルケは、『マルテの手記』を執筆したパリ時代に、変化しつつある当時の時代的雰囲気を身をもって敏感に感じとり、そのような自己の体験が『マルテの手記』の特異なエクリチュールを生み出す源となったことは十分に推測されうることである。『マルテの手記』の中で、マルテが物語について述べる言葉、「物語が語られたのは、本当に物語が語られたのは、僕が生まれる前の時代のことだったに違いない。僕は、誰かが物語を語るのをまだ一度も聞いたことがない」(Daß man erzählte, wirklich erzählte, das muß vor meiner Zeit gewesen sein. Ich habe nie jemanden erzählen hören. 13))は、きわめて示唆的である。
 プラハにドイツ人として生まれたリルケは、いわば故郷喪失者としてヨーロッパの各地を彷徨するが、1899年と1900年の二度にわたりロシアを旅行し、モスクワ、ペテルブルグ、キエフなどに滞在している。リルケはロシアを「心の故郷」と呼んでいるが、ロシアの広漠たる平野、そして土に生きる素朴な忍耐強い人々の姿は、リルケの生涯を貫く重要な体験となった。果てしなく広がるロシアの天と地を体験して、リルケは「悠久」というものをじかに感じとったのである。スラヴの魂に限りない親近性を覚えたリルケは、「ロシアの人々は深さと暗黒に生きている、そして寡黙だ」と述べている。
 リルケは一歳年上のホーフマンスタールと親交があり、両詩人の間には往復書簡も交わされており、リルケは、ウィーン郊外ロダウンのホーフマンスタール邸も訪問している。1907年リルケは『新詩集』を出版し、12月にホーフマンスタール夫妻宛に「ロダウンの思い出に」と書き添えて送っている。神童と言われた自分に比べ、ゆっくりと、しかし着実に詩業を深めてゆくリルケを温かく見守っていたホーフマンスタールは、『新詩集』を手にして驚嘆の気持を隠さずに、カロッサ宛てに賛辞を書いている。「これらの作品はとてもとても素晴らしいと思います。これはかつて私が眼にした詩人というものの最も美しい発展の姿です。彼は初期の頃は私に依存するところが多々ありましたが……初期の段階をこれほどまでに高く乗り越えることができるとは、なんという驚きでしょう!14)」リルケの月並みともいえる初期の段階から、年月を経るとともに徐々にほとんど垂直的に発展する詩業の営みは、よく知られている通りであるが、ホーフマンスタールもおそらくそのことを実感したのであろう。
 しかしながら不思議なことに、リルケが1910年夏に『マルテの手記』をホーフマンスタールに贈呈した際には、この作品に関して両人の書簡の中で何らかの言及がなされた形跡はないようである。むしろこの作品をめぐって、両詩人のエクリチュールに対する考え方の違いが明確に浮き彫りになる。ホーフマンスタールは、『マルテの手記』を「リルケのきわめて奇妙な本」と呼び、一人称の日記、追想、手紙、風物描写、備忘録、省察などのさまざまの形式、文体がなんの序列もなく集められたこの小説を理解できなかったといわれる。パリの街のあらゆる不安、恐怖、汚濁、醜悪、絶望などを選択や拒否の余地なく甘受し、心身を蝕まれながらも、ひたすらそれらを見つめ、芸術へと形成すること──これがパリでのリルケの生活だった。じかに人間的な現実に触れるためにリルケが選んだこうしたエクリチュールは、ホーフマンスタールにとっては「デリカテッセ」(Delikatesse)の放棄にほかならなかった。おそらくホーフマンスタールは、『マルテの手記』を前にして、ゲオルゲの詩に対すると同様の拒否の思いを抱いたのであろう。
 1903年のルー・アンドレアス=サロメ宛の手紙で、リルケは次のように書いている。「手仕事は言語自体のうちにあるのでしょうか。……それともある種の、よく受け継がれ、よく殖やされた教養(Kultur)のうちにあるのでしょうか。ホーフマンスタールならそれに賛成するでしょう。……しかし私は違います。すべて受け継がれてきたものに私は敵対せざるをえません。私が獲得したものはごくわずかです。私にはほとんど教養がないのです15)」ここには生まれ育った環境や時代認識の違い、伝統的なものに対する価値観の違いが、はっきり現われている。
 ホーフマンスタールの詩学の基本原理ともいうべき「デリカテッセ」は、語り手と語られるもの(対象)との間に保持される距離、すなわち叙事的な距離によって生まれる文章の妙味である。
 Angelika Corbineau-Hoffmannは、プルーストの未完の小説『ジャン・サントゥイユ』とホーフマンスタールの『アンドレアス』を比較して、両作品に共通するFragmentaritätという観点から両者の構造的な違いを分析している。彼女は両作品とも断章として未完に終わった理由を作品そのものの内的構造に求め、それをDenotation(明示的意味)とKonnotation(暗示的意味)の乖離もしくは対立のなかに見ている。つまり、両作品は形式的には共に教養小説(Bildungsroman)と自伝(Autobiographie)とを結合したものを目指したのであるが、描かれる人物、出来事、ストーリー等(Denotation)の次元を越えて、それらの指示対象世界とは全然異なる別の意味の諸相(Konnotation)が小説を支配するようになり、このDenotation(言語の表示する意味)に対するKonnotation(言外の意味)の優位が結局小説の内的構造を揺るがし、小説執筆を頓挫せしめたというのである16)。これは小説の内的構造面から見た一つの優れた分析方法であると思われる。
 プルーストが、『ジャン・サントゥイユ』の断章を壮大な回想小説(『失われた時を求めて』)へ転換できたのに対し、ホーフマンスタールは『アンドレアス』断章をその断片的な状態のままにとどめておくしかなかった。プルーストは、無意志的記憶の領域を発見することによって、意志的記憶の主体である「私」に無限の時間的・空間的拡がりを獲得させることができたのに対して、ホーフマンスタールにとって、そのようなエクリチュールの変革の道は閉ざされていたのである。換言すれば、プルーストは語りの連続性(Kontinuität des Erzählens)をわがものとすることができたのに対し、ホーフマンスタールは語りの断片性(Brüchigkeit des Erzählens)を克服できずに終わったのである。『失われた時を求めて』の話者である「私」にとっては、リルケの『マルテの手記』における『私』の場合と同様に、もはや何も固定したもの、確実なものはないのである。この曖昧な、不確定のまま漂う流動的な遠近法の開発こそは、プルーストの小説のPoetikであったといっていい。
 プルーストは、自作『失われた時を求めて』について、「この小説は意識的記憶と無意識的記憶の区別の上に成り立っている」と述べたが、この二つの記憶は、知性の記憶と感覚の記憶と言い換えることもできる。そして感覚の記憶に対して、知性の記憶を優位に立たせないのが彼の根本的な立場である。
この点に関して補足すれば、『失われた時を求めて』の訳者鈴木道彦氏は、次のように、述べている。「プルーストは決して、いわゆる〈無意志的記憶〉などというものを発見したから『失われた時を求めて』を書き得たのではなかった。〈無意志的記憶〉のメカニズムは、すでに『ジャン・サントゥイユ』にも現われているからである。しかし彼が充分に深めていなかったことの一つは〈批評〉であり、それを深めるためには数年にわたるラスキンへの傾倒と過去の作家たちの模作、そして何よりも自己の作品との長い苦闘が必要だったのだと思われる17)」
実人生を全面的に虚構に転化するというのが、プルーストの創作の根本態度であり、それは「一冊の書物は、われわれが自己の習慣、社会、悪徳のなかで示す自我とは別な自我によって作られている」(『サント=ブ―ヴ反論』という言葉からもうかがえる18)。
 真の意味で小説家・批評家としての資質をもっていたプルーストに比べれば、長編小説(Roman)というジャンルは自分には未知の領域であり、あまり自信がないことを自ら漏らしていたホーフマンスタールは、むしろ詩人的霊感の力によって一気呵成に書き上げるタイプの作家であった。彼にとって長編小説『アンドレアス』を書くのは、苦痛を強いられる作業であったと思われる。その事は執筆過程に親身に立ち会った友人ヴァッサーマンの言葉からもうかがえる。いつしか小説の仕事は停滞してしまい、やがて第一次世界大戦の勃発によって仕事は完全に中断されてしまう。
 現代のさまざまな困難な問題に直面しているわれわれから見れば、ホーフマンスタールのエクリチュール(Schreibweise)が生み出した『アンドレアス』断章は、確かにヴァッサーマンが言うように、あまりに仄かで繊細な美しい夢の世界であるにすぎないかもしれない。ヴァッサーマンは、『アンドレアス』が未完に終わった決定的な理由を、第一次世界大戦によるオーストリア帝国ハプスブルク帝国)の崩壊に見ている。ホーフマンスタールにとってオーストリア帝国は、単に政治的な国家を意味するだけでなく、複合的な文化共同体──幾多の異民族が同じ運命の下で呼吸し合う一個の多様で有機的な組織体──としての意味をもっていた。類まれな歴史的形成物としてのオーストリア帝国の古き良き伝統のなかで自己の最良の教養を身につけたホーフマンスタールにとって、帝国の解体はまさに自らの拠って立つ精神的基盤の崩壊を意味したのである。
 ホーフマンスタールがその死に至るまで筆を擱くことのなかったジャンルは、ドラマの世界であった。なかでもホーフマンスタールが台本を書き、作曲家のリヒャルト・シュトラウスとの共同作業で生まれたオペラ作品である『薔薇の騎士』や『アラベラ』などは人気の演目である。ホーフマンスタールの資質からいえば、悲劇よりも喜劇に創作意欲がかきたてられたような気がしてならない。彼にとって、喜劇こそは「社会性の達成」であった。(Das erreichte Soziale: die Komödien)19)
喜劇『むずかしい男』(„Der Schwierige”)は、オーストリア帝国の瓦解後にホーフマンスタールが創作した最初の大きな文学作品である。
 Diese Komödie besteht aus Konversationsdialogen sublimster Eleganz, die sich aus zartesten, subtilsten Nuancierungen entwickeln. Von Anfang bis Ende gibt es keine große Begebenheit, die eine überraschende, dramatische Wende herbeiführen könnte. ...... Alles spielt sich nämlich um die Hauptfigur Hans Karl ab. Er ist jedoch kein Menschentyp, der als Held eines Dramas überhaupt imstande wäre zu imponieren, sondern er spielt gleichsam seine Rolle nur durch sein bloßes Dasein. Dieser Held ist schwer zu definieren, er läßt sich nie eindeutig charakterisieren. ......Die Struktur dieses Stücks ist dergestalt geschickt und kunstvoll ersonnen, daß die Persönlichkeit des Helden erst allmählich deutlicher wird, indem die Nebenpersonen, die ihn umgeben, nacheinander auftreten und mit ihm in Konversation geraten. Einen bedeutenden Erfolg haben dabei die dramaturgischen Techniken, die hierzu eingesetzt werden:die Figurenkonstellation, die konstrative Personenzeichnung, die subtile Spiegelung eines einzelnen Charakters, der Perspektivismus der Darstellung u.a. 20)

注)9)(1903年4月3日付)エレン・ケイ宛書簡、『リルケ全集 別巻 伝記』所収、河出書房新社、1991年、28−29頁。
10) 同書、81−82頁。
11) Rainer Maria Rilke: Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge. In: Prosa und Dramen. Hrsg. von August Stahl. Rilke Werke Bd.3. Kommentierte Ausgabe in vier Bänden. Insel Verlag 1996, S. 456.
12) Ebd., S. 466.
13) Ebd., S. 557.
14) H.v.Hofmannsthal/R.M.Rilke: Briefwechsel 1899-1925. Hrsg. von R. Hirsch u. I. Schnack. Suhrkamp Verlag 1978, S. 184.
15) 戸口日出夫「ホフマンスタールリルケ──文学的世界の比較の試み」、中央大学人文科学研究所編『陽気な黙示録オーストリア文化研究』所収、中央大学出版部、1994年、266頁参照。
16)Angelika Corbineau-Hoffmann: Der Aufbruch ins Offene. Figuren des Fagmentarischen in Prousts Jean Santeuil und Hofmannsthals Andreas. Ein Versuch. In: Hofmannsthal-Forschungen. Bd.9. Hofmannsthal und Frankreich. Hrsg. von Wolfram Mauser. Freiburg i. Br. 1987, S. 183.
17) 鈴木道彦訳編『プルースト文芸評論』(筑摩叢書244)、1977年、285頁参照。
18) 同書、同頁参照。
19) Hofmannsthal: Ad me ipsum. In: Aufzeichnungen. S. Fischer 1973, S. 226.
20) Shoichi Maeda: Über Hofmannsthals Komödie „Der Schwierige.” In: 『ドイツ文学』(日本独文学会編)Ikubundo Verlag Tokyo, 1979、S. 92f.