探検隊長の写真集《視薬》と随想

視薬となる写真2葉


 村上春樹著『ノルウェイの森雑感
 上に掲げた写真とは全く関係ないが、ようやく『ノルウェイの森』を読了したので、このところずっと思い続けていた読後感などを自由気ままに記してみたい。村上春樹氏にノーベル賞受賞を期待する人々は、もっと彼の素顔を知りたいという欲求も強いようだ。つまり、彼がある文学イベントで「小説を書いていると思うと頭が重いが、好きなカキフライを揚げていると思うと楽になります」といった本音のような冗談のような話を求めているようだ。
 村上作品は、評価が「好き」「嫌い」という風に真っ二つに分かれるようだ。否定的な意見だけを拾い上げてみると、たとえばこうだ。上野千鶴子は、鼎談集『男流文学論』(小倉千加子富岡多恵子共著、筑摩書房、1992年1月)において『ノルウェイの森』を論評し、次のように述べている。「はっきり言って、ほんと、下手だもの、この小説。ディーテールには短篇小説的な面白さがときどきあるわけよ。だけど全体としてそれをこういうふうに九百枚に伸ばせるような力量が何もない」。あるいは上野ほど強烈な批評ではないが、富岡多恵子は、上記鼎談集において近松門左衛門の「情をこめる」という言葉を引用し、『ノルウェイの森』について「ことばに情がこもってない」と評する。それは「情をこめるようなことば遣いを現代というのがさせない」からかもしれないと述べている。筆者の目についた限りでは、率直に言って、次の評価が最も妥当で、核心を突いているように思われた。
 「――言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパッと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか。」(『なぜ村上春樹は文芸評論家から憎まれるのか?』、毎日新聞「この一年・文芸」に寄せた松浦寿輝の発言)
 筆者は村上春樹の作品は最初に『海辺のカフカ』『国境の南、太陽の西』を読み、そして遅ればせながらこのたび『ノルウェイの森』を読んだわけで、決して熱心な村上春樹の読者というわけではない。しかし『ノルウェイの森』は、若いころ大江健三郎や安倍公房を読んだ時の衝撃力には及ばないとしても、小説としては面白いのではないかという印象をもった。
 作家としての村上春樹の素顔とか人間性にはあまり興味もなく、かといって時系列に沿って学術論文のような作品論を展開する気持ちも湧かないが、『ノルウェイの森』は自分なりに一個の文学作品として解釈を試みてみたいと思っている。(いずれにせよ、その場合以前に試みたカフカプルーストの「語り」の分析が拠り所となる。)