小説の一人称形式の語りの特徴(3)


 初めに敬愛する友人田多井探検隊長の視薬(写真)を掲げ、当ブログを読んでくださる方々へしばしの間、息抜きのひと時を捧げたい。

 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、訳者の村上氏が言うように、ある意味で作者自身による「自己のトラウマの分析と、その治療の道を見つけるための自助的な試み」である。「彼はストーリー・テリングというものを通して、その作業をとても有効に行なっている。」ストーリー・テリングという作業には、確実にそういう効用がある。いってみれば「セラピー」みたいな効果である。「セラピストみたいな人は、とにかく患者にしゃべらせることが多いですよね。だからyouというある種の仮定の対象があって、それに向けてカウチに寝転んでとりあえずしゃべりまくっているというイメージは、ある程度真実に近いかもしれないですね。」
(引用は、村上春樹柴田元幸『翻訳夜話 サリンジャー戦記』文春新書、2003年より。
 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を書くことは、サリンジャーにとって、一つの治癒行為であった。ストーリー・テリングには、当然のことながら「嘘」とか「ほら話」が含まれる。主人公のホールデンは、ある意味でyouに向かってシャドウ・ボクシングをやっている趣すらあるといってもいいかもしれない。youの多様な機能について、村上氏は次のように述べている。「技法的に言えば、僕はむしろ……話をこっちに放り投げているみたいな感じがするわけ。作者は書いていて足が止まりそうに、あるいは視点が固定されそうになると、ひょいとボールをこっちに放り投げて、タイミングみたいなものをずらせておいて、それからまた、すっとボールを受け取って、また書いて……という感じがするんですよ。」
 このような見方に立てば、村上氏が言うように、この小説ではイノセンスはもはやキーポイントではなく、物語を語ること、すなわちストーリー・テリングによる心理療法的な治癒行為というものが重要な潜在的機能として意識されてくる。現代の心療内科における心身症の治療法の一つとして「物語」というものの効用を考えるとき、ますます複雑化する現代社会においてこの作品がもつ潜在的な意義は大きいといわねばならない。

 次に、村上春樹氏のもう一つの翻訳『ロング・グッドバイ』に言及しなければならない。まず清水俊二訳『長いお別れ』(1954年)の中で、探偵フィリップ・マーロウが終幕の場面で親友テリー・レノックスに会って交わす会話の部分を引用しよう。
 
 「君は僕を買ったんだよ、テリー。なんともいえない微笑やちょっと手を動かしたりするときのなにげない動作やしずかなバーでしずかに飲んだ何杯かの酒で買ったんだ。いまでも楽しい思い出だと思っている。君とのつきあいはこれで終わりだが、ここでさよならはいいたくはない。ほんとのさよならはもういってしまったんだ。ほんとのさよならは悲しくて、さびしくて、切実なひびきを持っているはずだからね」(清水俊二訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)

 チャンドラーの描写には、一人称の語りが生む叙情性とロマンティシズムが滲んでいて、それらの要素が事件解決に立ち向かうときの探偵マーロウの非情な行動と絶妙なコントラストをなしている。博識に裏打ちされた機知溢れる会話の妙味、時に挿入される度肝をぬくような比喩表現の斬新さーーそれらはハードボイルドの文体的特性に基づく表現法にしたがって、ほとんどが直喩による語法である。さらに普通小説と変わらないリアリズムの手法によって描写される作中人物の生き生きした動き、そして背景をなすカリフォルニアの美しい自然や風物の描写、これらが違和感なく暴力的アクションとないまぜになっているところが、チャンドラーの言い難い魅力である。
 ここで、あえて苦言を言わせてもらえば、さまざまな事件が相次いで起こり、多数の登場人物が動員され、サスペンスをはらんだアクションが錯綜するが、それにもかかわらず、あるいはそれゆえにというべきか、この作品を貫く縦糸である中心テーマ、すなわち固い友情に結ばれているはずのマーロウと親友レノックスの関係が、なんとなく作品の軸線から外れているように見えるのである。『さらば愛しき人よ』のクライマックス・シーンに比べれば、ラストに近いマーロウとレノックスの再会場面は、もの悲しい寂寥感をただよわせながらも、なにか白けた気分を残すのは筆者自身の僻目であろうか。
 この自殺したはずのテリー・レノックスがマーロウの前に姿を現わし言葉をかわすラストシーンに、筆者がある種の違和感のようなものを感じたのはなぜであろうか。この疑問が氷解したのは、村上春樹氏の新訳『ロング・グッドバイ』(早川書房、2007年)を読了した時であった。作品の解説として書かれた「訳者あとがきーー準古典小説としての『ロング・グッドバイ』の中で、村上氏はチャンドラーの文体の魅力を「自意識を抜きにした雄弁」の卓越性(heights of unselfconscious eloquence)にあると指摘している。語り手フィリップ・マーロウの視点によって切り取られた世界の光景は、正確綿密に、そして雄弁に語られながら、それは自我意識を通過することも反映することもない、いわば特殊な光学機械によって捉えられた光景である。
 訳者の村上氏によれば、フィリップ・マーロウという存在は、生身の人間というよりはむしろ「純粋仮設」として設定されているのである。これはまた自我意識というくびきに代わる有効な「仮説システム」として機能し、近代文学の陥りがちな袋小路を脱するための普遍的な可能性を提示している。『ロング・グッドバイ』が、ミステリーというサブ・ジャンルを超えた「都市文学」あるいは「準古典小説」として格づけされるのも、このような可能性の延長線上から帰結することであろう。
 清水俊二訳『長いお別れ』では、かなり多くの文章や細部が削られて訳されているようであるが、村上訳では「完訳版」として一切省略することなく、細部にいたるまで訳出されている。これによってディテールのもつ微妙な意味の揺れとか余韻が読者に伝わり、大雑把な読み方では把握できない部分と部分との関係性や呼応関係が読み取れるのである。
 清水訳ではフィリップ・マーロウとテリー・レノックスとの関係性が、物語の軸線から外れた、説得性の弱い希薄なものとしか感じられなかったのに対し、村上訳ではそのような印象が払拭され、互いに心を通わせ合った友人同士である主人公マーロウとレノックスとの関係性は、常に眼に見える形ではないにせよ、物語の深層に埋め込まれた地下ケーブルのように存在していることが感得される。
 限りなく純文学に近い小説でありながら、ミステリーは謎解きという宿命から逃れることはできない。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』は、内容的にみても本格小説の域に限りなく近づいていながら、最後の謎解きという作業(松本清張に言わせれば「非文学的な作業」)のゆえに、純文学にはなり得ないのである。
 村上春樹氏の翻訳を通して、主に小説の「語り手」の問題を考えてきたわけであるが、ここでいったん小休止をしながら、今後はさらに西欧にも視野を広げて、プルーストの『失われた時を求めて』における語り手の問題、あるいはカフカにおける一元的な視点による「語り」の問題などを考察したい。