カフカの『城』とは何か・・・『城』を求めての果てしなき旅(続稿)

   カフカ『判決』とフェリーツェ・バウアー
 カフカの生前(1913年)に発表された短編『判決』は、カフカが一晩で書き上げ、初めて自らが納得できる小説を書けたという自負を日記に綴った作品である。いわば真の意味で「カフカ的」小説を確立した記念碑的な短編であり、『変身』や『審判』、あるいは『城』などへと継がれるカフカの文学的苦悩と真実が凝縮した作品である。内容についてはすでにブログで扱ったので、ここでは最後の場面、すなわち父親がゲオルクをお前は悪魔のような奴だと言って罵り、「溺れ死ね!」と宣告を下すところを取り上げる。ゲオルクは父親の言葉に従って川に飛び込み、本当に自殺を遂げてしまう。物語の最後は、こうである。
In diesem Augenblick ging über die Brücke ein geradezu unendlicher Verkaehr.  「その瞬間、橋の上ではまさに果てることなく往来が続いた。」
「この瞬間、橋の上にとめどない無限の雑踏がはじまった。」(池内 紀訳)
「その瞬間、橋のうえでは、交通がとぎれることはなかった。」(丘沢静也訳)

 この最後の幕切れをめぐって、カフカ研究者によってさまざまに論議されている。この最後の一文は、一体なにを言おうとしているのであろうか?
この部分の解釈をモーリス・ブランショは『カフカ論』(栗津則雄訳)の中で
「息子が、その父親の認容することも反論することもできぬ宣告に応じて、彼に対する静かな愛の言葉を口にしながら、流れに身を投ずるだけでは充分ではない、この死があの奇妙な結びの文章によって、生活の継続へ結びつけられなければならないのだ、……カフカ自身も、この文章の象徴的価値と、明確な心理的意味とをはっきり認めている。」としている。 
 カフカはマックス・ブロートに、『ぼくはあのとき猛烈な射精のことを考えていたのだ』と語っている。あるカフカ研究者によれば、これはようやく自らの天職は文学以外にはないと確信した息子の父母への訣別の辞である。最後の一行を書きながらカフカがイメージした『猛烈な射精』とは、そのことに関連している。射精とは脱父母(父母の保護を抜け出て独立する)の第一歩だからである。これは主人公ゲオルクの自己への道を進む過程として読み取ることもできる。それはまた作者カフカ自身の内的ドラマとも見ることができる。
 ヴァルター・ゾーケルは、この作品の最後の文章に出てくるドイツ語のVerkehr(往来)について、次のように解釈している。Verkehr というドイツ語は、単に往来を意味するだけでなく、「(性的)交わり」という意味も持っているという。それゆえ、この言葉はコミュニケーションや通商交易を意味すると同時に、性や生殖の領域にも、具体的に言えば、ゲオルクが生を享けることになった両親の性交にもかかわってくる言葉である。マックス・ブロートも、橋の上の往来と両親の性交との関連を強調している。
 「主人公が自分の上で果てしなく進行してゆく生命の営みから自己を抹消する行為、それ以後は主人公の存在によって邪魔されることなく、生きている者たちによって行われるであろう交わりの下で主人公が河に身を投げるという行為、それが作者に激烈な愉悦を想起させたのである。後年カフカが日記に書き入れた文章を読むと、自己懲罰と死が彼にとって愉悦を意味したことをはっきりと知ることが出来る。彼は次のように記している。《私の書いた最良のものは満足して死ぬことが出来るというこの能力に基づいている。……私にとって……そのような死の場面はひそかな戯れであった。実際私は死んでゆく私の主人公の中で死ぬ喜びを味わうのだ》表にはっきりと現れたテクストのいわば背後に、あるいはその表面下に、Verkehr というキーワードに埋め込まれた形で、橋の上の往来とゲオルクが生を享けることになった両親の性交とのひそかな関連が隠されているのである。」[ヴァルター・ゾーケル著『カフカ論集』(武田智孝訳)、1987年、同学社、190-91頁参照] 
 《『判決』における複数の視点と真実》と題されたゾーケルの短編作品『判決』そのものの紙幅を大幅に上回る長大な学術論文にこれ以上かかずらうことはやめて、本題に戻りたい。

 「ほとんど潰れた鼻、ブロンドの、やや剛い、魅力のない髪、がっしりした顎」と初対面の印象を日記に記したフェリーツェ・バウアーに宛てて、1912年9月20日カフカは最初の手紙を送った。そして10月から活発な文通が始まった。『判決』はバウアーと出会った直後に書かれ、そして彼女にこの小説を捧げるとする献辞(フェリーツェ・Bのための物語)がある。カフカはフェリーツェとの交友ーー主として手紙による恋ーーを自分の創作のいわば強烈な刺激剤として利用し、一日に二通もやりとりした。1914年6月1日に二人の間で、正式の婚約が交わされた。しかしカフカは結婚生活が小説執筆の妨げになることを恐れるようになり、同年7月12日、ベルリンのホテルの一室で両者の友人を交えての話し合いの末、婚約を解消した。文学者としてのカフカには、いわば吸血鬼のようなエゴイスティックなところがあり、フェリーツェをひどく苦しめたことに対し「罪はないが、悪魔的だった」という自責の念を感じていたことは否定できない。カフカにとって、生きるため、創作への情熱を起こすためにはフェリーツェを必要とするが、結婚生活は文学と両立しがたいものだった。したがって、カフカはフェリーツェなしには生きられないが、彼女と一緒でも生きていけないというアンビバレンツな状況に苦悩せざるをえなかった。

 カフカと女性との関係を鋭い女性の眼で捉え分析した優れた研究が手許にあるので、それを参照しながら以下の考察を進めたい(参照した文献は、今野礼子著『カフカの文学と「女性」:研究の歩み』、上智大学ドイツ文学論集37、2000年、である)。フェリーツェ・バウアーとの葛藤に典型的に見られるように、カフカの生涯は、女性への熱望と自らの孤独な文筆業への逃走という悲劇的な矛盾対立、そしてその結果としての破局という宿命に特徴づけられていた。女性たちとの交友の記録や作品に登場する女性像は、カフカ研究者にとって不断に挑発的なテーマであり続けている。研究史的に見れば、1970年代のフェミニズム運動に強く影響を受けたものもあるが、パーヴェル・アイスナーのように、カフカの時代の「プラハチェコ的環境」を作品の背後に見出し、女中や召使といった人物に当時のチェコ女性たちの姿が反映されていると指摘した例もある(アイスナー『カフカプラハ』,1950年)。
 一般的には『審判』におけるように、「ほとんど女の尻を追い回している者たちばかりで構成されている」裁判所という組織に主人公(K)が接近するために、その場限りのエロティックな接触に陥らざるをえない女性たちは、主人公(K)と裁判所の間を仲介する自己犠牲的な助力者として働くように仕向けられる。ここでは女性は、主人公と得体の知れない裁判所とを仲介する機能的な助力者として解釈されるのである。
 女性は必ずしも犠牲者として解釈されるわけではなく、ヴィルヘルム・エムリッヒのように、廷丁(廷吏)の妻レーニは弁護士の看護婦、情婦として裁判所と一体化し、被告人たちに性的隷属を迫るが、同時に省察に没頭する男性に生殖という生の直接的な喜びを開示して葛藤から解放・庇護し、裁判所に屈服させようとする魔女的な助力者であると解釈する場合もある。男性を誘惑し、深淵へと引き摺り込むこのような妖婦性は、ヴァルター・ゾーケルやハインツ・ポリツァーなどでも強調されている。
 このような機能性を重視した女性像に対して、ジル・ドウールーズとフェリックス・ガタリは、『カフカ、マイナー文学のために』において、むしろ構造的な側面に焦点を当てた考察を行っている。つまり、Kを中心として起こる人間関係のセリー(連続性)の増殖や分裂という『審判』の構造こそが、裁判所の権力からのKの無限の逃走劇を図式化するものとなっているという前提に立った上で、エロスを媒介に新たなセリーを生み出す女性を、セリーの「連結器」と名づけるのである。ドウールーズとガタリの研究を契機として、女性を男性主人公と濃密に関わる特異な脇役として、あくまでも副次的な考察対象とする従来の傾向は一変し、女性はここで初めて自立的な研究対象という地位を獲得することになる。主人公の男性的な視点を絶対的な立脚点として試みられてきた女性の解釈や作品世界の把握が疑問に付され、視点の徹底的な相対化が試みられるようになる。実際に「女性」がいかに描かれているか、「女性」に対して男性がどのような姿勢と態度で接しているのか、そしてカフカの文学にとって「女性」とは一体何か、という本質的な考察が始まるようになる。
 1980年に発表されたブリギッテ・リュール=ヴィーゼの画期的ともいうべき論文『鳥籠が小鳥を探しに行った、カフカーー女性的なものと学問』(この意表をつく題名に留意せよ!)によって、カフカの作品と「女性」との決定的な関係が明らかにされ、カフカの文学において第一義的な意味を担う「女性」の本質へと肉薄する独創的な探求の試みが始まることになる。(未完)