カフカの『城』とは何か ・・・ 『城』を求めての果てしなき旅(続稿)

 カフカの自伝的な事柄に関して
ーーーカフカをめぐる女性たちを中心にーーー

       (写真左から、エリ、ヴァリー、オットラ)
      カフカと三人の妹たち    
 オティリー・カフカ(Ottilie Kafka、1892年10月29日 - 1943年)は、「オットラ」の愛称で知られる。作家フランツ・カフカの妹であり、兄妹のなかでもっとも彼と親しかった。
 プラハの小間物商ヘルマン・カフカとその妻ユーリエとの間の末子として1892年に生まれる。彼女には兄フランツ・カフカのほかにエリ、ヴァリーの2人の姉がいた。幼い頃は姉妹で固まって過ごすことが多く、このため幼少期のフランツは孤独な思いを味わったが、オットラは妹たちのうちで唯一、父ヘルマンに反抗することがあり、フランツ・カフカの最も信頼する人物のひとりとなった。
 オティリーは当初、父ヘルマンの店を手伝っていたが、兄フランツの薦めもあり20代半ばになって農場経営を学んだ。彼女が農地を借りた小村チェーラウには1917年に、肺結核を病んだフランツ・カフカが療養のために滞在しており、ここでの田舎生活がのちに彼の長編小説『城』に反映されることになった。彼女は夫ダヴィトとの間に二女をもうけたが、ナチス・ドイツによってオーストリアが併合された際、非ユダヤ人である夫のキャリアを傷つけないように彼と離婚した。1943年、アウシュビッツに連行されていく子供たちの付き添いを申し出、間もなくここで殺害された。彼女の2人の姉も同じ運命を辿っている。
 
 上の写真は、カフカ1920年8月14日あるいは15日ににオットラ宛に送ったGmündの絵葉書である。そこには、"Liebe Ottola, es geht mir hier sehr gut,
ich huste überhaupt nicht […] Franz" と書かれている。
 

フェリーツェ・バウアー(Felice Bauer)は、シレジア出身のユダヤ人女性で、フランツ・カフカの婚約者であった。彼女は、当時オーストリア=ハンガリー帝国に属していた上部シレジアのノイシュタット(プルドニク)に生まれた。1899年、一家で上部シレジアからベルリンに移り、父はここで保険職員として働き始めた。しかし1904年から6年あまりの間両親が別居していたため、フェリーツェは高校卒業後すぐに働きに出て母を養わなければならなくなった。
 フェリーツェは速記を習い、まずレコード会社に就職、1909年よりベルリンのリントシュトレーム社でパルログラフ(口述筆記機械)などを扱う販売員となり、1912年8月、販路拡大のためにプラハに移り、マックス・ブロートの家を訪れた際、たまたまブロートの友人であったフランツ・カフカがブロートの家にやってきており、二人は初めて顔を合わせた。カフカはこのときの印象を日記に次のように記している。「ほとんど潰れた鼻。ブロンドの、やや剛い、魅力のない髪。がっしりした顎。腰を下ろしながら彼女を始めて前よりもよく見たが、坐っているとき、もう揺るがしがたい判断(Urteil)を下していた」(新潮社『決定版カフカ全集』7巻、206頁)。
 カフカは約一ヶ月後にフェリーツェのもとに手紙を送り、10月より活発な文通が始められた。1913年にはカフカが休暇中、ベルリンのフェリーツェの許を訪れるようになり、1914年6月1日に正式に婚約が交わされた。しかしカフカは結婚生活が小説執筆の妨げになることを恐れるようになり、同年7月12日、ベルリンのホテルの一室で両者の友人を交えて話し合いをした後、婚約を解消した。婚約解消した後も2人は会っており、第一次大戦中に再び仲が深まった。1917年7月、二度目の婚約を行う。戦争が終わったらすぐに結婚してベルリンに住むつもりであったが、間もなくカフカ結核にかかり喀血、このためカフカから申し出て再び婚約を解消した。カフカとの関係が終結した後、フェリーツェは1919年3月に14歳年上の銀行家モーリツ・マラッセと結婚し、後2人の子供をもうけた。1931年に一家でスイスに移り、1936年にアメリカ合衆国へ移住。フェリーツェは1960年にこの地で生涯を終えた。彼女はカフカとの関係が終わった後も、彼から送られた500通もの手紙を保管しており、この手紙はのちに『フェリーツェへの手紙』として刊行されている。
    ミレナ・イェセンスカ(1896年8月10日ー1944年5月17日)は、チェコのジャーナリスト、編集者、 翻訳家。 彼女は1919年から1920年の間、作家フランツ・カフカと恋愛関係にあった。
父は著名な顎整形外科医でプラハ・カレル大学教授であったヤン・イェセンスキー(Jan Jesenský)。ミレナの一族は17世紀のプラハで当時禁止されていた死体解剖を行って処刑されたスロバキア人医師であったヤン・イェゼニウス(Jan Jesenius)の子孫に当たる。
 父親は保守的考え方の持ち主であったにもかかわらず、娘・ミレナをオーストリア=ハンガリー帝国初の女性向けギムナジウムミネルバ」に通わせ、ミレナは、そこで開放的な少女時代を過ごす。
 1915年、ギムナジウムを卒業したのち父の望みで医学を学ぶが、1916年に専攻を音楽に変更し、プラハの文士カフェに通い始める。彼女はそこでプラハ在住の作家たちと知り合い、銀行家・文芸評論家であったユダヤ人のエルンスト・ポラックと恋に落ちる。父は二人の交際に反対しており、ミレナを1917年6月から翌年3月まで精神科に強制的に入院させる出来事があったものの、1918年にようやく結婚が認められた。エルンストとの間に1女をもうける。
 結婚後、プラハからウィーンに転居し、プラハの新聞社に原稿を送りながらジャーナリストとしての活動をはじめる。1919年12月30日の「トリビューナ」紙に掲載された「ウィーンからの手紙。震える街のクリスマス」が彼女の最初のエッセーで、その後、ウィーン流行事情のような記事も手がけるようになる。1919年11月、ミレナはフランツ・カフカの『火夫』などの短編を翻訳するためカフカに手紙を送った。1920年4月にはチェコの雑誌に『火夫』が掲載され、これがカフカ作品の最初の翻訳となった。
 当時カフカ家では末娘オットラの結婚をめぐって激しい親娘の対立があった。対立を残したまま、オットラは農業の勉強を継続するため1919年1月フリートラントへ旅立つ。妹の希望を支持したカフカは、診断書を提出して得た休暇で再びシュレーゼンの宿泊所に戻る。そこで同じようにプラハから療養に来ていたカフカの第二の婚約者となるユーリエ・ヴォホリゼクと出会うのである。彼女は、富裕なユダヤ人からみれば最下層の靴屋ユダヤ教区小使の娘であった。病身で女店員である彼女は、シオニズムと幾分かの関わりを持っていた。プラハに戻ったカフカは、しばしばユーリエと行動を共にし、夏にはユーリエ・ヴォリツェックとの結婚を決意し、婚約した。しかしこれは、父親の強い反対にあった。そしてこの後、『父への手紙』が書かれることになる。この『父への手紙』は、多くのカフカ論に引用され、カフカ文学の理解を深める第一級の資料ともいわれるが、反面短絡的に父親・息子の和解不能な対立という図式にはめ込まれ、さらに父親=権力といった形に拡大され、カフカの文学の真実な理解を歪め、単純化してきたことも否定できない。自身病弱で前の婚約者を喪った悲しみに基づくユーリエとの婚約は、いわば一種のVernunftheirat(理性結婚、打算結婚)ともいうべき性格のものかもしれない。しかしながら、ミレナとの仲が次第に深まっていくうちに、カフカ1920年7月にユーリエとの婚約を解消した。一方、ミレナは夫と別れる決心がつかず、またカフカもそのことを強く望まなかったため、二人の仲はやがて冷えていった。
 その後も2人は文通などを通じて交際を保っており、カフカはミレナに『失踪者』の原稿や日記を手渡している。またミレナはカフカの死に際して新聞に追悼文を寄せている(1924年6月6日ナロードニ・リスティ紙)。
 彼女は、1930年代初めに共産主義に傾倒するようになりチェコスロバキア共産党に所属し、共産党系の新聞で文章を書いていたが、後に共産主義を批判するようになると1936年にチェコ共産党を除名されている。彼女はチェコ人であったが、ユダヤ人援護運動に関わっていたため1939年にプラハゲシュタポに逮捕され、ドレスデンの未決囚留置所からラーフェンスブリュック強制収容所に収容され、収容所の診療所で働いていた。ミレナはドレスデンで既に腎臓病を患っていたが、本人は暫くの間リウマチであると信じていた。1944年の初めに腎臓が化膿していることがわかり、収容所内の病院で手術を受け一時は回復したが、5月17日に死亡した。
 ミレナは生前のカフカから送られた膨大な量の手紙を事前に評論家の友人ヴィリー・ハースに渡しており、この手紙はミレナの死後『ミレナへの手紙』として公刊されている。収容所では1940年に独ソ不可侵条約の捕虜交換により、カラガンダ強制収容所から送致された元ドイツ共産党員・政治評論家のマルガレーテ・ブーバー=ノイマン(Margarete Buber-Neumann)と知り合い、互いに支えあいながら収容所生活を送る親友関係になった。二人は自由になったら収容所の体験を書こうと約束しており、マルガレーテは強制収容所での体験を記録した自伝『スターリンヒトラーの軛のもとで』(Als Gefangene bei Stalin und Hitler: eine Welt im Dunkel. Ullstein-Taschenbuchverlag,1948年)を出版し、後にミレナの回想録『カフカの恋人 ミレナ』(Milena: Kafkas Freundin.1966年)を出版した。
 ミレナの強靭な精神力、何事にも動じない毅然とした性格をマルガレーテやスタンダールが賞賛している。『ミレナへの手紙』のあとがきに評論家のヴィリー・ハースは「16世紀か17世紀の貴族女性のようだ」と記した。スタンダールは、自らの作品の登場人物『赤と黒』のマチルド・ドゥ・ラ・モリエールや『パルムの僧院』のサンセヴェリーナ公爵夫人に例えている。15歳年上であったカフカもミレナに宛てた膨大な手紙の中で「母なるミレナ」と記していた。

 本稿で扱った女性たちとの関わりが、その後のカフカの作品、とりわけ『城』のなかで陰陽どのような形で反映しているかを今後は探ってみたいと思っている。