カフカの『城』とは何か・・・「カフカのエクリチュール」(補遺)

 物語理論は、非常に重要な概念をロマーン・インガルデンに負うている。それは「不確定個所」という概念である。物語理論における「語り手」(Erzähler)と「映し手」(Reflektor)という概念を、適用することによって、「不確定個所」という現象の多様性を的確に把握することができる。語り手は、映し手の場合とは違った種類の「不確定個所」を、しかも違った頻度数で創りだすからである。その逆もまた理論的には可能である。
 たとえば語り手は、物語内容の選択プロセスの動機づけ提供をし、読者はこれを納得する。つまり語り手は、物語行為の中に自らが現存することによって、提供される情報の「完全性」を保証し、物語の理解を助けるのである。一方、映し手においては、物語行為と物語内容の選択の動機づけは主題化されていない。したがって読者には、物語内容の選択基準に関するいかなる明示的な情報も与えられないままなのである。物語内容の選択は、この場合もっぱら描写のパースペクティヴからなされる。映し手の鋭く照準されたパースペクティヴによって、虚構の一断面を切り取り、それをくまなく照明しながら描写し、映し手にとって重要な細部が隅々まで読み取れるようにするのである。だが、この切り取られた断面の外側には、暗闇、不確かさが支配し、大きな不確定個所が広がっている。ただ時折、照らし出された断面からの読者の逆推理によって、この大きな空所が点描的に把握されるだけである。読者は、このような描写様式からは、映し手の知覚によって照らし出された虚構の現実の一断面の外側に、はたして描かれた出来事にとって重大な意味をもちうる何かが存在するのかどうかを正しく判断することはできない。読者はこの問題においては、映し手のパースペクティヴに無条件に委ねられ、またその実存的に制約された知識・経験の地平に繫ぎとめられている。不確定という事態は、この場合、語り手におけるようにコミュニケーションの問題ではなく、虚構の一人物の実存ならびに現実体験の条件として認識されるのである。
 すでに述べたように、語り手の報告的物語(語ること)は、具体的な出来事を、かいつまんだ報告や評釈によって概括することを目指す。それに反し映し手による描写では、部分的で具体的なものが、映し手によって体験されたり知覚されたりするままに、要約も抽象化もされず、そのまま提示される。その結果、この二つの物語様式によって、読者にはまったく性質を異にする物語の読み方が提供されることになる。
 映し手は、読者に対しいかなる個人的な関係ももたない。したがって映し手は、たとえ何らかの方法でそれが可能であっても、自らの意識が何を受けとめ、何を受けとめなかったかを、読者に対し説明する義務を負わないのである。したがって、映し手によって照明を当てられた虚構的現実の一断面の周囲に広がる「不確定個所」は、時として不気味で得体の知れぬ性格を帯びる。「作中人物の意識というスポットライトで照らし出された断面の外側に広がる空間は、推測、懸念、不安……といったものが巣くう空所である。現代世界に住む人間の存在の不安と実存の危機が、わけても小説の<作中人物に反映する>形式に最も説得力に富む表現を見出したのも、ゆえなきことではない。そのことは、たとえばカフカの小説に、ことのほか明白に表われている。」(F・シュタンツェル『物語の構造』162頁)
 カフカが小説『城』の第一章を草稿(初稿)の一人称形式から三人称形式に移し換えたのは、主人公Kを語り手的人物から映し手的人物に変換したのだと解することもできる。カフカの他の小説の主人公と同じように、Kは無数の説明しがたく不可解な状況に取り巻かれているが、しかし映し手としてのKに、読者はもはやそうした状況の解明を要求することはできない。ドリット・コーンは、カフカのこの人称変換に関連して「独り語りの論理は―自己説明とは言わないまでも―自己正当化を要求する」と述べたが、この言明は、映し手とは逆に、すべての語り手にあまねく当てはまるのである。
 カフカに『城』(初稿)の第一章を、一人称から三人称に書き改めさせることになった誘因の幾つかをドリット・コーンは説明しているが、彼女の解釈の準拠枠を、[一人称/三人称]という対立構造から[語り手/映し手]という対立構造にまで拡大して考えるならば、彼女の説明の有効性はいささかも失われることはないだろう。
 初稿(一人称形式)の《作中人物に反映する物語状況personale Erzählsituation》への書き換え、並びにそこから生ずる結果としての主人公Kの語り手的人物から映し手的人物への変身は、なんといっても「不確定個所」の構造変換を招来したのであって、それがために、宿命の名状しがたい不気味さを描写しようとするこの小説の全般的傾向がいっそう強調されるのである。伝統的な語り手による物語とは対照的に、カフカにおいて効果をあげているのは「物語の全体に対する部分の重要性や興味深さ」とともに、「素材を切り詰めさせる独特な選択原理、Kの意識の限界と彼の人間的・遠近法的制約」なのである。