カフカの『城』とは何か・・・余談 「カフカのエクリチュール」

 すでに述べたことであるが、カフカの『城』の初稿は、その手書き原稿によると、冒頭からほぼ40ページ以上にわたって、一人称で書かれている。その後一人称が姿を消し、代わってKがこの物語の主人公として現われてくる。ドリット・コーンは、カフカがなぜ一人称形式を三人称形式に変更しようと決心したか、そしてその結果として、この変更はテクストにどのような文体上の、あるいは構造上の変化をもたらしたかを、『城』のテクストの検討を通じて明らかにしようとした。[Cohn,Dorrit, "K. enters The Castle: On the Change of Person in Kafka's Manuskript", Euphorion 62(1968), S.28-45.]
 フリードリヒ・バイスナーの『物語作家フランツ・カフカ』(1952年)は、ドイツのカフカ研究に強い影響を与えたことで知られる。バイスナーは、カフカがいつも単一の視点で、わたし(一人称)=形式だけでなく、三人称形式においても、単一の視点で語ることを指摘している。『失踪者』(『アメリカ』)で語られるすべては、カール・ロスマンによって見られ、感じられた事柄である。何事も彼なしに、または彼に反対して語られることはなく、彼のいないときの何事も、語られない。ただ彼の考え、すなわちカール・ロスマンの考えだけしか、語り手は伝え得ない。『審判』でも『城』でも全く同様である。 バイスナーが、カフカにおける作者ー語り手ー主人公における単一の視点(視点の一致)を指摘したことは、画期的なことであり、カフカの作品構造とカフカエクリチュールの特異性とを顕在化させる重要な発見でもあった。

 次に引用するのは、Kが初めて助手たちと出会う場面である。(初稿)
"Wer seid ihr"fragte ich und sah von einem zum anderen. "Euere Gehilfen", antworteten sie. " Es sind die Gehilfen", bestätigte leise der Wirt. "Wie?" fragte ich. "Ihr seid meine alten Gehilfen, die ich nachkommen ließ, die ich erwarte?" Sie bejahten es. "Das ist gut", sagte ich nach einem Weilchen, "es ist gut, daß ihr gekommen seid". "Übrigens", sagte ich nach einem Weilchen, "ihr habt euch sehr verspätet, ihr seid sehr nachlässig".

 「君たちは何者なんだ」と、私はたずね、一人からもう一人へと目をやった。「あなたの助手です」と、彼らは答えた。「この人たちは助手ですよ」と、亭主が低い声で請け合った。「何だって?」と、私は問いかえした。「君たちが、後から来るように言いつけておいた、あの私が待っている昔からの助手だって?」彼らはそうだと言った。「それはいいや」と、私は少ししてから言った。「君たちが来てくれてよかった」「ところで」と、私はもう一度少し間をおいてから言った。「君たちはひどく遅れたね。君たちはひどくずぼらだな」

 われわれ読者に語り手の話した言葉は示されているが、語り手の発話されていない思考は示されていない。少しの間(二つのWeilchen)が各々の応答に先行しているが、それは決して書かれることのない主人公(「私」)の反応を暗に示している。前には目もくれることもなかった二人の男を自分のかつての助手として歓迎し、そしてその後で叱りつけるという不可解な事実を考慮しても、これは理解に苦しむ省略である。そして語り手は、どこにおいてもこの謎を解決していない。われわれがこの場面を決定稿で読むと、Kは不可思議な人物だと承服できるし、それなりの解釈を探し求めることはできる。しかし、これを一人称形式で読むと、この不可思議な人物の存在は受け入れがたいものになる。三人称物語の語り手のみが、その登場人物の意識や内面を覆い隠したり、また露わに見せたりできるのである。
 こうして一人称形式によって不透明な自己の心理を表現することの問題性が、カフカに一人称の語り手という形式で小説を書くことの困難さを次第に認識させていったのである。カフカの『城』の初稿では、現在の語りと過去の体験(「語る私」と「体験する私」)とを結びつける繋がりが、しばしば破綻をきたし、そこに露呈される「語り」の連続性の欠如と不調和が、カフカに『城』を一人称小説として書き続けることを不可能にさせたのであった。
 こうしてカフカは、一人称小説を三人称小説に書き換えることによって、換言すれば、一人称の「語り手」を三人称の「映し手」(Refrektor: F・シュタンツ゚ェルの用語)に変換することによって、小説そのものの叙法を転換することができたのである。

 よく言われるように、典型的な一人称小説では、物語り行為が独特の仕方で劇化されている。すなわち話し手と聞き手という枠組みを設定したり(ジッドの『背徳者』)、語り手自身に言及して物語り行為中の語り手自身の相貌を浮き立たせたり(『トリストラム・シャンディ』)、あるいは物語り行為を行なう語り手の存在をことさら誇示することはなくとも、自らの思考や発話の特徴的なパターンを語りそのものの中に浸透させる(『フェーリクス・クルル』、『荒野の狼』)手法などによって、物語り行為を読者に意識させるのが、大なり小なり一人称形式の特徴である。そこには必ず、「語る私」と「体験する私」が存在する。
 一人称形式では、語り手の存在が物語の時間構造を決定する。というのも、自分自身の過去の出来事に言及する語り手は、必然的に「体験の瞬間」(moment of experience)と「語りの瞬間」(moment of narration)との間に経過した時間を物語の中に導入せざるをえないからである。言い換えれば、一人称小説では「語りの時間」(die Zeit des Erzählens)と「語られる時間」(die erzählte Zeit)が截然と分けられるのである。しかしカフカのテクスト(初稿)では、このような時間構造が必ずしも判然としない。一人称形式の特徴は、「過去(体験の場)ー−現在(語りの場)」という両極的な時間構造にあるが、カフカの『城』(初稿)では、文法上だけの一人称物語となっている。逆に見れば、このような困難との苦闘があったからこそ、カフカは『城』草稿の中で語り手であり主人公である「私」を「K」に置き換えることに、何らの躊躇も感じなかったのである。
 この人称の転換は、単に小説の叙法の変換であるばかりでなく、カフカにおける最も本質的なエクリチュールの特徴、すなわち「作者」−「語り手」−「主人公」という三者における視点の一致(バイスナーの指摘)を蘇らすことになったのである。