≪中欧論≫ クラウス・ヴァーゲンバッハ著『若き日のカフカ』(中野・高辻訳)を読む

 ヘルマン・カフカ(父)は、チェコユダヤ系の地方プロレタリアートの出身で、プラハにおいてもヨーゼフ区のスラム街に住んでいたのに対し、ユーリエ・レーヴィ(母)は、裕福なドイツ・ユダヤ系家族の出身で、プラハでは旧市内広場の「スメタナ館」に住んでいた。
 高校時代までカフカは「ミヌタ館」という狭い環を出たことがなかった。対岸のラウレンチ山やホテク公園への日曜日の散歩を別にすれば、彼は「故郷の群衆が僕の周りを動き、僕の目を紛らせた」この円周の中に閉じ込められていた。ドストエフスキーの場合と同じように、カフカの作品の中で自然がある役割を演じることはほとんどない。自然は決して大きな光景としては現われず、せいぜい筋や状況を映す鏡として現われるだけだ。プラハの古い、入れ子になった「通り抜け可能の」家々(Durchhaus)と、ぐるりを「パヴェラッチュ」と呼ばれるベランダに囲まれた狭い中庭、そしてプラハ「旧市内」の狭くて幾重にも折れ曲がっている小路、これらが幼いカフカにとっての唯一の印象に残る遊び場であった。
 高等学校(ギムナージウム)時代
 クライストへの傾倒。『審判』に着手する前に、『ミヒャエル・コールハース』を読んでいる。この時期に、グリルパルツァーとシュティフターも読んでいる。
 ボヘミア王国労働者災害保険局に勤めている間にカフカは北ボヘミア工業労働者の苦悩を知ることになる。第一次世界大戦前の数年、彼はしばしばチェコ無政府主義者の集会に出席している。社会主義への関心。
 世紀転換期のプラハプラハ環境の記述)
 1900年にプラハは約45万人の人口をもっていたが、この都会の中で、カフカはほとんどその最中央部、旧市内とヨーゼフ区(旧ゲットー)を離れなかった。「ある時私たちが窓からリング広場を見下ろしていると、そこらの建物を指さしながら彼が言った、“これが僕の高等学校、向こうのこっち側を向いた建物の中に僕の大学、そのちょっと先の左側が僕の勤め先。この小さな輪の中に、僕の一生が閉じ込められているんです”。」(カフカヘブライ語の先生フリードリヒ・ティーベルガーの報告。100頁)
 互いに重なり合う老朽した家々、倒壊の一歩手前の状態の家々、建て増しに建て増しを重ねて、狭い路地をさらに狭めている家々、迷路のように曲がりくねった小路、明かりの入らぬ細い路地、薄暗い中庭。カフカは幼児期に体験したこの独特な世界を決して記憶から失わなかった。ヤノーホに彼はこう語っている。「僕らの心の中には今でもあの暗い片隅や、いわくありげな通路、盲窓、汚い中庭、騒がしい居酒屋、戸閉めした宿屋などが生きている。僕らは今この建て直された町の幅広い道路を歩いている。けれども僕らの歩みと視線は落ち着かない。心の中では今でも僕らは悲惨な古い路地にいるみたいに慄(ふる)え
ている。僕らの心臓はまだあの実施された環境整理を受けつけていないんだ。心の中のこの不健康な古いユダヤ人街は、僕らのまわりの衛生的な新しい町よりもずっと現実的なんだ。目覚めたまま僕らは夢のなかを歩いている、僕ら自身も過ぎ去った時代の亡霊なのかもしれない。」
 カフカより二つ年下のエーゴン・エルヴィン・キッシュは、「通り抜けられる家」(Durchhaus)というプラハ独特の仕組みについて、公道を避けて通る可能性について書いている。「けれども探検旅行を志すわれわれ子供たちが表の通りを使うのは、二番目、いや三番目の出口をもった家々を探す時だけだった。必ずそんな家が見つかるということは、この町では保証ずみだった。これらの通り抜けられる家々も連続性の法則に従っていて、順ぐりにつながっていたから、そこでプラハの全市内を、このいわば陸路だけを使って歩きまわることができた。公道を利用しなければならないのは、ただ横断する時だけだった。」
 1900年には45万の住民中ドイツ語を話すのは、わずか3万4千人であった。プラハのドイツ人は「資本力」という点で重要な役割をもっていた。彼らは大ブルジョワとして、炭鉱の所有者、モンタン企業やスコダ兵器工場の重役、ホップ仲買人、砂糖工場、織物工場、紙工場の持ち主、銀行頭取であった。彼らの社会に出入りするするのは、大学教授、高級将校、高級官僚たちであった。ドイツ人のプロレタリアなどはまず存在しなかった。2万5千人のドイツ人、プラハ人口のわずか5%が、活気ある社交生活を楽しんでいた。
 ドイツ人貴族および大ブルジョワと、社会的に「より低い」地位に追いやられているチェコ人の対立という状況の中での、ユダヤ系ドイツ人の立場。
 カフカチェコ語への熟達によってばかりでなく、チェコ民族の民族的社会的事情への洞察の点で、リルケやヴェルフェルよりもずっとまさっていた。ヴェルフェルは、裕福な手袋製造業者の息子として、乳母や家庭教師を通してチェコ人と接触したにすぎない。カフカは数え切れぬほどチェコ人のデモや政治集会に参加したばかりでなく、チェコアナーキストの集会にも出ていたし、ほとんどがチェコ人である「労働者災害保険局」の従業員との親しい関係を通じて、はるかに強烈にチェコ民族と接触していた。
 「プラハユダヤ人の大部分が住んでいたのは、ある独特な島のような閉鎖性のなかだった……その範囲がしだいに狭められてゆく自然保護区域。ユダヤ人は……一種の自由意志によるゲットーのなかに生きていた……。」アイスナーが宗教的ゲットーから社会的ゲットーへの移住について語っているのは正しい。
ユダヤ人はチェコ人からは「ドイツども」として忌避され、ドイツ人からはユダヤ人として拒否されていた。
 批評的究明と鋭い判断というユダヤ人の根源的な才能──ハイネ、マルクスフロイトアインシュタイン等に脈々と生き続けている伝統──は、いくつかの民族と宗教に絶えず挟まれた当時の状況のなかでも生き続けていた。
 最も激しく対立しながら同時に立場を交換しうる社会状況のなかでは、出来事に批評的距離をとることはほとんど不可能であった。これが疑いもなくカフカ文学の重大な重荷であった。彼の長編や短編に語り手の姿が欠けていることは、この囚われの直接の結果である。孤独と集団の境界からは、全体についての展望をうるのはきわめて困難だった。「孤独と集団の間のこの境界地を僕はそれこそめったに踏み出したことがない、僕が居をかまえていたのは孤独それ自体のなかよりも、むしろこの境界地のなかだったのだ。」(カフカの言葉)
 カフカの言語表現
 若いプラハ派の文学にみられる没趣味性。言語上の混沌と言葉の惑乱。
 たとえばグスタフ・マイリンクの『菫色の死』の中の一節。「奇異な彩色をされた、玉虫色に光る手のひら大の蝶が、魔術書のページを開いたように翅を広げて、静謐な花の上に憩うていた。」あるいはマックス。ブロートの初期の作品の一節。「童話めいたつぼみのようにオーケストラからまるい音が立ちのぼり、展開して金色にひびく盃となった。なかにきらめいているのはすばらしい美酒だ!」リルケの『マルテ・ラウリス・ブリッゲ』の一節。「──患者が彼女のまぶたのなかに緑色の痰を吐いたかのような、彼女の膿漏眼……」「……膿が開いた傷口からこぼれるように、笑いが彼女の口からこぼれた……」
 だがカフカの作品では、その最も残酷な場面、たとえば『流刑地にて』の処刑装置や刑の執行の正確な記述においてさえも、そこに支配しているのは言葉のこの上ない清潔さであり、このことはすでに同時代者の認めるところでもあった。カフカの、簡潔で冷たい、べたつかない、語彙の少ない、論理的に構築された言葉は、その目立つ特色としてつとに認識されているが、しかしそのプラハ派に対する一目瞭然の言語上の相違は、これまであまりにも無視されてきた点である。
 (クルト・トゥホルスキーの書評『ディー・ヴェルトビューネ』1920年6月3日:「ミヒャエル・コールハース以来これほどの力をもって同情というものを一切おさえたように見えるドイツ語の短編を知らない。……法外に冷たく、関心を殺して物語られている。……どんな問題ももっておらず、どんな疑いも問いも知らない。断乎としている、ちょうどクライストと同じように。」)
 フリッツ・マウトナーは、プラハの一般的言語状況を次のように明確に表現している。「チェコの土着人口に取り囲まれたボヘミア内部のドイツ人は、紙のドイツ語を話す……そこには土から生まれた表現の充溢も欠けているし、様々な方言語法の充溢も欠けている。この言葉は貧しい。ここでは方言の充溢とともに方言のメロディーも失われてしまったのだ。
 プラハには、言葉がつねに新たに生まれてくる源のドイツの民衆がいないのである。プラハのドイツ人は、ただ教養によってドイツ人であるにすぎない。
 チェコ語の影響によるドイツ語の貧困化。とりわけ語彙そのものの貧困化。
 「異なる言語体どうしのこの不幸な接触は……僕らの国々では、言葉の縁辺のこの絶え間ない劣悪化をもたらして、そこからさらに違う結果を生んだ。つまり、プラハで成長した者は、ごく幼い時からこのように腐った言葉の屑で養われてきたので、彼らは後になっても、彼らに与えられたすべての、最も適切な最も微妙な表現に、一種の反感、そう、一種の羞恥が生じてくるのをどうしようもなくなるのだ。」(リルケ)「気がかりな語の乱れ」(リルケの言葉)リルケは、生涯を通じて、生まれ育った環境の言語の不毛を力づくで克服しようと試みた。
 カフカの言葉は、ほとんどすべての地方的影響から清められた彼独自のプラハ・ドイツ語である。「……中世ラテン語のような死語。言葉の生きた言い回しから離れた、不毛という意味で純粋な言語……これがカフカの伝達手段となった。正確で醒めかえった、しかし表現力に富み柔軟なこの言葉……」
 ハインツ・ポリツァーの指摘。
 「その実質からすればカフカの言葉は豊かではなかった。抑揚と慣用句の使い方の点で、いや語の選定においても、文法上の癖においてさえも、ここで支配しているのはあのプラハ・ドイツ語だ。隣り合うスラブ語やチェコ語によって、またプラハユダヤ・ドイツ語によって、たっぷりと色付けされた言葉だ。そしてまさにこの独特な色づけこそ、カフカの物語のイロニーを、地方色をすべてとり除いた高みにまで高めることに決定的に役立っているものなのだ。彼は、完全に純粋には使いこなせなかった材料から、ひとつの純粋な、完璧に統御された、彼だけにしかない独自な文体を作り上げたのである。」
 「カフカの散文には、わが身に気遣っている少年のような純血性がある」(フランツ・ブライ)この純粋主義は、環境の言語上の混乱と腐敗に対する返答であるばかりでなく、同時代のプラハ人が彼とは反対に言葉の貧しさに対抗する手段だと誤解していたあの人工言語崇拝への拒否でもあるのだ。
 「フランツ・カフカは天から下された人、偉大なる選ばれし人である。そしてかかる時代と環境だけがよく、彼の天上的認識と彼の筆舌につくせぬ体験を、文学の鋳型に注ぎ込ましえたのだ……」(フランツ・ヴェルフェル)
 「(『火夫』の)十六歳の少年カルル・ロスマンにはなにか元となるモデルがあったんですか」というヤノーホの質問に対して、「僕は人間を描いたのじゃない。僕は物語を語っただけだ。そして物語とは、形象(ビルト)、形象だけです」とカフカは答えた。