≪中欧論≫ プラハの街の地形学



 プラハの街(1)
 

 14世紀神聖ローマ帝国皇帝であったカレル4世(在位1346−78年)治世の時代に街の骨格となる形がほぼ完成した。プラハ大学創設、カレル橋の創建、大司教座を置くなど歴史に残る多くの偉業を行なった。旧市街のほかに新市街の建設を促進させた。城下町(マラー・ストラナ)に多くの教会や修道院をつくった。
 1526年よりボヘミアハプスブルク家の支配のもとにあったが、1547年反ハプスブルクの蜂起も失敗に終わった。1616年から再びチェコ貴族による反ハプスブルク闘争が起こったが、1620年いわゆる「ビーラー・ホラ(白山)の戦い」によって鎮圧された。さらに30年戦争によって経済力を失い、最後までボヘミアの防衛拠点であったプラハは、1648年スウェーデン軍に占領された。
現在、煤で灰色にくすんでいたプラハは、修復作業によって、美しい街並みの外観を取り戻している。
 各時代のさまざまな建築様式が競い合うように街並みを飾っている。
 「王家の近道(ロイヤル・ロード)」と呼ばれる道があるが、それは火薬塔を出発点として、旧市街広場を横切り、カレル橋を渡って「マラー・ストラナ(城下町)」を過ぎ、フラッチャニ(プラハ)城へといたる道である。現在では観光コースとなっているが、昔から王に謁見する使節団とか商人たちが歩んできた道である。道沿いの建築は、ロマネスク様式に始まり、ゴシック、バロックを経て、アール・ヌーヴォーのスタイルまで揃っている。
 最初の王朝であるプシェミスル家によってチェコが国家として統一されると、
フラッチャニ城が国王の居城となった。 ヨゼフォフ(ヨーゼフ)地区は、元はユダヤ人のゲットーで、19世紀末にはスラム化が進行していたため、衛生化措置によって全面的な再開発の機運がおこり、不潔なスラムの家々をエレガントなアパート群に一変させるべく採用されたのが、パリ風の新スタイル「アール・ヌーヴォー(セセッション)」であり、ヨゼフォフ地区の再開発は、プラハの街をアール・ヌーヴォーの街とするきっかけになった。
 ヴァーツラフ広場は、1348年カレル四世が新市街につくった広場である。元来は、馬や穀物の市場であったが、1848年この広場の正面にヴァーツラフ一世の銅像が建てられて以来、彼の名称で呼ばれるようになった。
 ヴルタヴァ川沿いの旧市街と新市街の境目に位置する国民劇場は、チェコ国民がドイツの支配に対して抵抗した民族主義の運動を象徴する代表的な建物である。チェコ国民は、チェコ語による国民自身の劇場を望んで全国的なキャンペーンを起こし、資金を集めて自力で建設したのである。1881年ネオ・ルネサンス様式の劇場が完成したが、落成式の前夜信じられない悲劇が起き、劇場が火災で焼失した。もちろん劇場は、国民の寄付によって再建された。
 19世紀半ば頃の建築は、ウィーンの歴史主義的な建築スタイルの影響を受けている。この国民劇場もそうである。そのほかルドフィヌム・コンサート・ホール、国立オペラ劇場、国立博物館などもウィーンの影響を受けた折衷主義の様式である。

 旧市街広場にある旧市庁舎は壁時計によって知られるが、暗黒の歴史をもっている。1620年、ビーラー・ホラの戦いでハプスブルク王朝との戦いに敗れたプロテスタントチェコ貴族たちは、翌年この市庁舎で裁判にかけられ、その結果27人の指導者が市庁舎前の旧市街広場で斬首された。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの爆撃によって、建物は大きな被害を受けた。
 旧市街広場の中央には、15世紀の宗教改革者の先駆者ヤン・フスのブロンズ像がある。

 現在もプラハ市の観光名所の一つである旧ユダヤ人墓地。小山のように盛り上がった土の中から、墓石がさまざまの方角に向けて突き出ており、ぎっしりと族生(群がり生える)しているように見える。用地が制限されていたために、ゲットーの住人たちは、既存の墓地の上に盛土をして、新しい墓石を据えるという手段を講じて、墓地を幾層にも重畳させていった。それは、最大限12層にまで達しているといわれる。
 墓地の後方に建てられているピンカス教会の内部の壁には、第二次世界大戦ナチス・ドイツの犠牲となったボヘミアモラヴィア地方出身のユダヤ人7万7297人の名が彫られている。
 ユダヤ人街では、一個人が土地付き一戸建ての家屋をもつことは、ほとんど不可能であった。一軒の家屋の半フロアー分をある家族が所有していたり、また別の家族は階段の吹き抜けの一部のみを、あるいは柱だけを、あるいは天窓だけを、あるいは地下室だけを所有しているというあんばいである。こうした「分割家屋」は、登記簿に、一軒につき30人の所有者が併記されていることもあったという。

プラハ本駅の駅舎は、豪華なシャンデリアや天井画・壁画・装飾彫刻で知られるが、市内最大のアール・ヌーヴォー建築である。
 
 カレル橋……洪水や戦闘にも耐える頑強な橋を作るため、石と石を繋ぐモルタルには生卵が混ぜられたという。この橋の基本構造はゴシック様式で、欄干にはバロック時代の有名な彫刻家たちの手になる30体の聖人の彫像が並んでいる。橋の両側に立つゴシックの防衛塔は、かつては橋の通行税を取る関所として使われていた。

 マラー・ストラナには、作曲家ベートーヴェンやフランスの詩人シャトーブリアンも一時滞在した。マラー・ストラナ広場に立つ13世紀末に建てられた聖ミクラーシュ教会は、1711年バロック様式に建て直された。銅造りの丸屋根(キューポラ)をもつこの寺院は、バロック時代のプラハを偲ばせる代表的建築物である。その威容はまた、カトリックハプスブルク家の支配力の象徴でもある。

 「ペルトラムカ」の家
 17世紀末に建てられた古い館であるが、1784年オペラ歌手ヨゼフィナ・ドシュコヴァに買い取られた。彼女は音楽教授の夫と1777年新婚旅行中にザルツブルクモーツァルト一家と知り合い、若き作曲家モーツァルトプラハに招いた。こうしてモーツァルトの最初のプラハ訪問が1787年1月に実現した。モーツァルトは長くプラハに滞在し、秋には周囲の山の美しい紅葉を楽しみながら、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の創作に励んだという。プラハ5度目の滞在の際、彼は再度ペルトラムカで泊まったが、それが最後となった。病を得たまま、彼はウィーンへ戻り、そこで自作のオペラ『魔笛』を初演したが、同年12月5日、35歳の若さでこの世を去った。
 ウィーンでは彼の遺体は墓掘人の手によって貧民共同墓地に埋葬されたが、プラハでは12月14日、聖ミクラーシュ教会でモーツァルトのためのミサが盛大に執り行われ、その死が悼まれた。親友のオペラ歌手ドシュコヴァ夫人がソロを歌った。

 チェコの国は小さく、敗北の歴史を重ねているので、屈折した心理的コンプレックスは大きい。19世紀末にはオーストリア・ウィーン文化に対する対抗意識からフランス文化への好奇心が生まれ、かつてはウィーンやミュンヘンへ勉学のため出かけていた芸術家たちは、今やパリへ向かうようになる。アルフォンス・ミュシャなど。アール・ヌーヴォー様式以外にも、フランスのモダンアートの影響を受けたキュビスムの建築や彫刻、工芸が生まれている。
 年間1万人もの外国人がプラハでの永住を申し込んでいるという。今や帰化したアメリカ人だけでも3万人が暮らしているという。(1999年現在)
  
 チェコ人たちは、敗北の歴史をもつ小国民のせいもあり、ブラック・ユーモアをもって抵抗する能力に優れている。被支配者、非抑圧者としての歴史から生まれた文学。プラハで有名な人形劇もこの系譜に属する。

 第一次世界大戦中、自らの体験に基づいて『善良な兵士シュヴェイクの物語』というシリーズ小説を書いたヤロスラフ・ハシェクのユーモアは、その代表的なものである。小説の正式な題名は、「ある兵士が第一次大戦において出会う滑稽な事件の数々を描いた未完の連作短編」である。ハシェクの両親は南ボヘミア生まれであるが、ハシェクプラハ生まれ。生没年が奇しくもカフカと重なり合っているのは、不思議な暗合というべきか。カフカ(1883−1924)。
ハシェク(1883−1923)は、第一次世界大戦が勃発するとオーストリア軍に徴兵され(1914年)、その後オーストリア軍を脱走してロシア軍の捕虜となる。1917年ロシア革命が起こるが、彼はボリシェヴィキとしてロシアに残る。1919年祖国に戻った時、チェコはすでに独立をかち得ていた。作品を発表する出版社を見つけるのに苦労した。
カレル・チャペック(1890-1938)チェコの作家、劇作家、ジャーナリスト。戯曲『ロボット』で知られる。ロボットという言葉は、チェコ語で「労働」を意味する単語robotaから作られたという。1938年ルイ・アラゴンの提唱の元、フランスの11人の作家がノーベル賞を与えようとほかの作家たちに呼びかけをするが本人は辞退する。

 
 プラハの街(2) 
 
 プラハの街を語る時、必ずと言っていいほど引き合いに出されるのが、グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』という小説である。プラハに伝わる有名なゴーレム伝説にヒントを得ながら、一応形の上ではそれを下敷きにして書かれた作品である。ゴーレム伝説というのは、16世紀にプラハに実在したレーフというラビ(ユダヤ教の律法学者)が、キリスト教徒によるユダヤ人迫害に対処しようとして、土から造り上げた人造人間ゴーレムが、舌の裏に護符を差しこまれた時にのみ、生命を得て、大活躍をしたが、師がその護符を取り去ると、またもとの土人形に返るのであった。ところが、ある晩ラビが護符を取りはずすのを忘れると急に凶暴になって街を暴れまわり、これを追って捕まえたラビに護符をはぎ取られてもとの土くれに返った、という話である。
 また、この伝説を下敷きに1936年チェコで≪ゴーレム≫という映画が制作され、日本でも公開された。映画は、ルドルフ二世治下のプラハを舞台に、英雄的なラビが巨人ゴーレムを造って、ユダヤ市民を弾圧していた王を倒し、市民を圧政から解放するという物語になっている。
 グスタフ・マイリンクは、ウィーンに生まれ、幼少期をミュンヘンで過ごし、ギムナジウムと大学はプラハで通い、引き続いて何年かプラハで銀行業を営む。
 プラハで暮らすうちに迷宮都市のような神秘性と妖しい魅力をもつプラハの街にしだいに惹かれていったマイリンクは、彼が傾倒していたオカルティズム、カバラ神秘主義グノーシス思想、ヨーガ、錬金術、シュタイナーの神智学といったあらゆる知識を総合させ、あるいはごった混ぜにしながら、幻想文学『ゴーレム』を書き上げた。

 マイリンクは、プラハを闇と光の、此岸と彼岸のはざまに立つ都市として表現している。すなわちマイリンクは、プラハの都市図を、モルダウの流れをはさんではっきりと闇の地区と光の地区に分ける。闇のゲットー(ユダヤ人居住区)と光のフラチーン(プラハ城)、すなわちゲットーを抱える旧市街地区とフラチーン城が聳えるクラインザイテ(マラー・ストラナ)地区とに。
 そして、闇の此岸と光の彼岸とを結ぶのは、言うまでもなく古い聖像の立ち並ぶ石造の橋、カレル橋である。
もちろん、このような幻想は仮構にすぎないことは言うまでもない。
カフカの描くプラハ(幻想が現実であり、現実が幻想であるという風に、現実と幻想の境界が取り払われ、両者が表裏一体となっている)とは違って、マイリンクの描くプラハは仮構性に満ち満ちたものといえる。
マイリンクの『ゴーレム』は、エルンスト・ブロッホが言うように、風刺性、言い換えれば、客観性が欠如した、幻視と幻想が戯れる主観的な世界である。
 カフカの文学はどうであろうか。カフカの文学は、トドロフが言うように、「幻想が常態(日常)となった」現代における文学として捉えなければならない。
 そこでは、光と闇、彼岸と此岸といった二項対立的図式による図形学は、もはや有効性を失っている。

 1900年の国勢調査によると、プラハ市内には415,000人のチェコ人、25,000人のユダヤ人、10,0000人のドイツ人が住んでいた。(数字は概数)プラハ在住のユダヤ人で、使用言語を「チェコ語」として申告した者は14,145人、「ドイツ語」として申告した者は11,346人(ユダヤ人全体の45,3%)であった。調査がチェコ人の市当局の監督下で行われた事情もあって、チェコ人の間で勢力を増していた反ユダヤ主義に対して、ユダヤ人が政治的な配慮をしたことも考慮に入れなければならない。
 カフカの父は、当初から一貫して家族の使用言語を「チェコ語」として申告していたが、カフカ自身は1910年の調査では、父の意向に逆らって「ドイツ語」で届け出ている。
 
 フリッツ・マウトナーはプラハで幼少期、青年期を過ごしたが(1855−76)、この時代を回想した『自伝』のなかで、彼は「二つの言語が混在しているボヘミアユダヤ人として」ドイツ語、チェコ語ヘブライ語という「三つの言語の死骸を、自分自身の言葉のなかにしまいこんで、始終、持ち歩かなければならなかった」と記している。こうした境遇が、彼を言語の探求へと駆り立てる原動力ともなった。彼は、あくまでドイツ系ボヘミア人として自己を規定していた。
マウトナーの言語批判論の原型を形づくることになった、いわゆるプラハ・ドイツ語への批判も、それがいわば「死んだ言葉」である点に向けられている。
 「チェコ人の地方住民にかこまれて、ボヘミアの内部に住んでいるドイツ人は、ドイツ語の方言を話すことはない。耳と口がそっくりスラヴ語にむけられているのでないかぎり、彼は、いわば紙に書かれたドイツ語を話しているのである。そこには、大地に根ざした表現の豊かさが欠けている。方言の諸形式のもつ豊かさが欠けている。その言語は貧しい。」(Fritz Mautner)
 
 プラハ・ドイツ語に関する論議に刺激を与えたのは、ヴァーゲンバッハによるカフカの文体に関する解釈であり、またその際に、重要な典拠の一つになったのがマウトナーの見解である。        
 マウトナーがボヘミアの小都市ホルジチュから、両親にしたがってプラハへ移住してきたのは、1855年のことであったが、その頃印象に残ったこととして、当時は道路標識や商店の屋号、酒場の看板などが、ほとんど例外なくドイツ語であったと彼は書き記している。
 しかし1861年、初のチェコ人市長が誕生し、プラハ市議会、ボヘミア州議会でチェコ人勢力が進出してくると、プラハの街路標識も漸次改変され、結局1894年にはチェコ語の単独表記に統一されることになる。
 チェコ民族運動は、とりわけ言語運動として展開された。ドイツ語の単独表記から、ドイツ語―チェコ語の併記へ、さらにチェコ語―ドイツ語の併記へ、そして最終的にはチェコ語の単独表記へとめまぐるしく変遷したプラハ市内の道路標識が如実に示しているように、プラハの街にはスラヴ色がますます強く刻印されてゆく。道路標識に見られる言語の一元化は、官公庁における公用語にも影響し、チェコ語にドイツ語と同等の地位を要求する民族運動が高まった。
 1895年に首相に就任したバデーニが97年に発布したバデーニ言語条例によって、初めてチェコ語も官庁用語として認められたが、官吏に両公用語の習得を強制するこの条例は、ドイツ人を著しく不利な立場に追い込むものとして、ドイツ人の側からの激しい抗議行動によってバデーニは罷免された。一方、それに対するチェコ人の反発も激しく、反ユダヤ主義的な傾向を帯びた暴動へと発展し、戒厳令が発布されてボヘミア議会が機能停止となり、その結果1907年までボヘミア州はウィーンの帝国政府から直轄統治されることになる。

 世紀末の1895年から世紀転換期にかけて「衛生化措置条例」によって、ユダヤ人街(ヨーゼフ街)を中心にして古い老朽家屋の取り壊しが進められ、その跡地に次々と新築家屋(賃貸住宅)が(多くはゼツェッシオーン様式で)建設された。
 カフカは「衛生化措置」によるプラハの街の変化について、ヤノーホに次のように語ったという。
 「私たちの内部には、暗い裏街、秘密めいた通路、盲窓、汚い中庭、喧騒にみちた酒場や得体の知れない安宿などが、いまもなお生きつづけています。私たちは、新しくつくられた市街の幅広い大通りを歩いていきます。しかし、私たちの歩みや眼差は、どこか落ち着きません。心のなかでは、私たちは、まだあの昔ながらの陋巷(貧しくむさくるしい裏町)にいるかのように、おののいています。私たちの心情は、衛生化措置が断行されたことなど、まだ感知しません。私たちの内部に生きている、昔の不潔なユダヤ人街は、私たちをとりかこむ衛生的な新市街よりも、はるかに現実的な重みをもっています。醒めつつ、私たちは、夢のなかを歩いているのです。みずから、過ぎ去った時代の一個の亡霊として。」
 
 ユダヤ人街のたたずまいや雰囲気を描くにしても、非ユダヤ人であるマイリンク(『ゴーレム』)やレッピン(『ユダヤ人街の幽霊』)の場合、かなり様相を異にしている。彼らは二人ともドイツ人であって、ユダヤ人ではなかった。異民族の眼に映じるままに、ゲットーがはらんでいる闇を隠喩として、メタフォリックに表現しようとする姿勢には、一種の差別的目線が潜んでいたのではなかっただろうか。   
 プラハの大まかな地誌を図式として示すならば、モルダウ川を境として、左岸のフラチーン、クラインザイテと右岸のユダヤ人街を含む旧市街および新市街に区分される。
プラハ本駅(旧フランツ・ヨーゼフ駅)に着いて、正面出口から外に出ると、パルク小路をへだてた向こう側に市立公園が広がっている。かつては静かな憩いの場として、プラハ市民に親しまれていた。

 Willy Haas:Die literarische Welt 『文学的回想』(第1章「古いプラークのさまざまの秘密」の中で記述されているプラハの街と市民の生活、交友関係)。
 ドイツ人とユダヤ人。これはその当時のチェコプラハにとってはほとんど同じものであり、ドイツ人とユダヤ人とは、同じように憎まれていた。……
 クラインザイテ市域にある神秘的で豪壮なバロック式邸宅に住む貴族たちはフランス語を喋り、いかなる国民にも属さず、ほとんど一世紀も前から消えてしまっていた神聖ローマ帝国の家臣をもって任ずるものであった。私の乳母、子守り、私の家の料理女、女中はチェコ語を喋り、私も彼女たちとともにチェコ語を喋っていた。……
 私が6歳になってヘレンガッセにあるピアリスト会の学校に入ると、一学年上級にフランツ・ヴェルフェルがいて、私は彼とはしょっちゅう市立公園で遊んだものだった。ヴェルフェルの家は私の家よりもかなり階級が上で金持であり、騒々しい旧市内ではなく、市立公園のそばの静かで品のよいマリーエンガッセに住んでいた。(ヴェルフェルの父親は、手袋製造会社の経営者であり大富豪であった。)
 ピアリスト修道院付属学校には、ルネ・マリア・リルケも一緒に学んでいた。彼の両親の家は、ヴェルフェルの家からほんの街角二つばかりしか離れていなかったが、いくらか階級の落ちる界隅であった。……
 こんな風に上流や中流や下層のいろいろな階級が棲み分けをしていた。……
 ウィーンとプラハユダヤ系ドイツ人の社会層はひどく不安定な状態にあった。彼らは自分たちを門閥家と考えていた。その根拠は、自分たちが古いボヘミアオーストリアの素姓を持ち、愛国心を持ち、財産を持ち、グスタフ・マーラージークムント・フロイトやアンリ・ベルグソンアルベルト・アインシュタインのような偉大な芸術家、思想家、医師、科学者を持っていたからである。(アインシュタインは、その当時プラハ大学で講義をしていた。)
 ユダヤ人たちはチェコ人と大部分のドイツ人とに憎まれていたが、ハプスブルク家の皇帝および名門の人々からは、いくらかの好意もしくは公正さを期待できた。皇帝から期待できた理由はおそらく、ハインリヒ・ハイネの礼讃者であった亡きエリーザベト皇后がウィーン宮廷において反ユダヤ主義を決して許さなかったからである。彼女は不幸な息子であったルードルフ皇太子と同様、あるタイプの国際主議的なユダヤ系ジャーナリストおよび作家に対する共感さえ抱いていた。
 私は今日、何十年かの距離を置いて振り返ってみて、カール・クラウスは生まれながらのサディストであったと確信している。彼は、一番痛いところを痛めつけるという、きわめて微妙なサディストの本能に恵まれていた。彼は意識的な誘惑者であり、──意識的に毒を盛る人間であった。彼の毒牙にかかる人間の──それはしばしば、意味のある経歴の出発点に立っている若くて罪のない人々だった──人間的・精神的・道徳的な程度などは、彼にとっては全くどうでもよかった。
 彼のなかのこのサディズムは、窮極において深いところに潜在している充たされない同性愛の要素に帰すべきものであることを、私は確信している。(カール・クラウスは、雑誌『炬火』の発行人で風刺家・毒舌家として知られる。)
 私はマックス・ブロートを通じて、フランツ・カフカを知る。
 フランツ・カフカは、そして彼だけが、二、三の断片的ではあるが壮大不滅の画像のうちに、特に『審判』と『城』とのうちに、私たちの青春の世界を集約し、組み立てたのである。これらの作品が二十年後、カフカの死後に彼の意志に反して出版されたとき、私はそれらを読んだが、それは人々が自分の青春の全く慣れ親しんでいたパノラマを読むようなものであった。そのパノラマのうちでは、どんな街の隠れた片隅、街角、どんな埃っぽい廊下、どんなみだらさ、どんな微妙な遠回しの暗示でも、すぐにそれとわかるのである。
 カフカはたしかに、私たちが言うべきでありながら言わなかったこと、言うことができなかったことを、すべて言い尽した。この点が私にとっては彼の天才というものだと思われる。……だから私には、カフカの作品について書かれた実存主義的なのやら非実存主義的なのやら何千というエッセイの一つとしてわからない。その理由は、つけ加えられるどんな言葉も余計なものであり、全く表面にすでに含まれている内容に──またどんな別な深い次元に含まれている内容にも──ただヴェールをかけてしまうだけだからである。……プラハに生まれなかったような、そして1890年か1880年ごろに生まれなかったようなだれかが、彼のことをおよそ理解できるなどとは、私にはとうてい思えない。
 
 [プラハの街の地形学]
 パーヴェル・アイスナー『カフカプラハ
 パーヴェル・アイスナーは、1889年プラハ生まれ、1958年同地に没する。カフカと同時代人。
 基本テーゼ:フランツ・カフカは、ただそのプラハの観点からのみ、したがって、二度とありえぬ類い稀な境遇を深く認識することによってのみ解明可能である。
 ドイツ語を話しながらドイツ人ではなく、そうかといって正統な信仰をもったユダヤ人でもなく、ましてやチェコ人ではなかった。いわばおのれの存在の自己同一性を確認しようとすればするほど、さまざまな敵対原理によってその自己同一性の根底を崩されるという逆説的な関係こそ、まさに彼が身を置かねばならぬ情況であった。
 常に社会の片隅に身を置く辺境居住者、異邦人であり、無用者であった。
 トーマス・マンとは対照的。市民と芸術家の対立を描くことによって、芸術家の社会的「やましさ」を問題化した。カフカの場合、プラハに生きることに伴う倫理的ジレンマ、罪障感(罪意識)。
 フランツ・ヴェルフェル…大実業家で財閥の息子。
 カフカ…裕福な市民の息子。チェコプラハの出身ではなく、ドイツ・プラハの出身(プラハ出身のドイツ系ユダヤ人)であり、地方的偏狭性の中に閉じ込められて、外界に通じる出口や通風孔をもたなかった。(ベルリン、ウィーン、パリ、オスロ、あるいはニューヨークに住まなかった。)
 フランツ・ヴェルフェル、マックス-ブロート、エゴン・エルヴィン・キッシュ、ヴィリー・ハース、カール・クラウスなどの教養ある文化人たちは、精神的ゲットーを脱出して、海外へ、ウィーン、ベルリン、ドレスデンハンブルクへ、あるいはシオニズム運動へと逃亡した。
 カフカは、平均的なプラハのドイツ系ユダヤ人とは異なり、自力でチェコ語の正確な知識とチェコ文化、そしてイディッシュ文学に対する深い理解を身につけていた。
 
 カフカは、プラハチェコ文学者の急進的な組織である「青年クラブ」に足繁く出入りし、このクラブで『勇敢な兵士シュヴェイク』の著者であるヤロスラフ・ハシェクと知り合いになった。社会機構に対する激しい反抗者たるシュヴェイクにとっては、いかに生きる<べき>かが問題であったが、カフカにとっては、自分は<存在>しうるのか、存在<すべき>なのか、ということであった。
 カフカにおいてはすべてはきわめて精緻であると同時に幻覚的であり、手に触れうるほど具体的であると同時に魔法めいた影であり、そしてそこに一貫している雰囲気は、模糊とした罪障意識と不安、広場恐怖症的な浮遊性のそれである。
 次に掲げるのは、『ある戦いの記録』の中の「旧市街広場」に言及した一節である。大円形広場にまつわる幻視。奇妙な浮遊感覚。

 ≪だが、ある大きな広場を横切らなければならないとき、僕はなにもかも忘れてしまう。思い上がりからこんな大きな広場を造るのなら、なぜ広場を斜めに横切る手すりを一緒に造らないのか? 今日は南西の風が吹いている。市庁舎の塔の先端が輪をえがいてくるくるまわっている。窓枠はいっせいにガタガタ鳴り、街路灯の支柱は竹のようにたわんでいる。円柱のてっぺんに立っている聖母マリアの外套は、吹き上げられ、風に引きちぎられそうだ。どうして誰の眼にもそれが見えないのだろうか? 敷石の上を歩く紳士淑女も、足が宙に浮く始末。風がやむと、彼らは立ちどまり、二言三言言葉を交わし、身をかがめて挨拶をする。そしてまた風が吹けば、逆らうこともできず、またいっせいに足が宙に浮いてしまう。なるほど帽子はしっかり押えていなければならないのだが、彼らの眼は楽しそうで、天候にはさらさら不平などない、といった体だ。僕だけが怖がっている。≫

 カフカの言語。カフカの透明なドイツ語──クライストやアーダルベルト・シュティフターのそれを思わせる──には、二、三の稚拙な構文上のチェコ訛りが出てくる。カフカのブッキシュなドイツ語は、まったく文語的であり、どのような方言用法も一つとして混入していない。プラハユダヤ・ドイツ人の言語創出は、完全に個人的なもので、人々の口から生まれたものではない。(リルケやヴェルフェルの場合など。)それは人工品そのものとして創り出されるのだ。カフカの作品に登場する数多くの人物たちは、例外なく完全無欠の文語的なドイツ語を話す。この特徴が、カフカの人物像と影絵芝居の幻想的な性質を強めるのに大きく貢献している。


プラハの街とデリダ
 デリダは、1981年末にプラハで逮捕された。空港の税関で、麻薬が発見されたからだと言われるが、逮捕の真の理由は、デリダがその時反体制グループのセミナーに参加したからだと言われている。逮捕時デリダはちょうどカフカの『掟の門前』を読んでいて、掟ないし法の「起源」について考えていた。「来たるべき掟」のエクリチュール

 『掟の前で』(掟の門前)解釈 
 カフカは、民族としての強固な存在感をもっていた東方ユダヤ人、正統ユダヤ教徒には属していない。同時に、ユダヤ人として、キリスト教的世界にも属しておらず、またドイツ語使用者として、チェコ人でもなければ、ボヘミア・ドイツ人でもなく、さらにボヘミアプラハ)生まれとして、オーストリアにも属していなかった。多くの世界に少しずつ属しながら、そのいずれにも完全には所属しない、生まれながらの「異邦人」であった。
 いかなる世界にも所属できない異邦人であるということは、存在を喪失しているということ、存在の零地点に「流刑」されているということにほかならない。彼は存在喪失という原罪を負うて生まれたのである。彼の生涯の苦悩と努力は、いかにして世界に入場と所属を許され、どうして存在の数値を獲得するか、という点にだけかかっている。質的にも量的にも彼の最大級の作品である『城』は、存在獲得をめぐってのこの苦闘の集中的な表現であるといえるだろう。いつまでたっても城とその村に所属することを許されない測量師Kの生涯は、生まれながらの異邦人カフカの縮図であった。
 ユダヤ教において、律法が神エホバとイスラエルの民とのあいだに結ばれた契約の条件であるように、カフカにおいても掟は世界に所属を許されるための絶対の条件である。(掟についてのカフカの考え方を最も端的に示しているのは、『審判』の第9章で伽藍の僧がヨーゼフ・Kに物語る寓話である。)
 カフカの世界がデフォルメされているように見えながら、よく見ると、そのような歪んだ世界が実は正常な日常的世界であることに気がつく。カフカの文学は、リアリズムの文学なのである。

 掟という門を通ってしか世界に入る道はない。しかし、異邦人には掟がわからない。掟はその世界に住む人々には自明の約束だが、異邦人の眼には、まったく未知の、不可解な規則の体系として映るだけである。しかもこの規則は、合理的理解をゆるさずに、ただ絶対の服従のみを要求するから、それはむしろ強制命令として映るのだ。ここからカフカの作品に繰り返し出てくるあのややこしい管理機構──たとえば『審判』の奇妙な裁判所や『城』の城──の意味が明らかになる。すなわち、それらは異邦人の眼に強制命令の体系として映じた掟のすがたにほかならない。異邦人は掟を知らぬから、世界に入場することができず、いつまでも存在の零地点に「流刑」されている。そこで彼は、ついに自分に罪があるのではないかと考えはじめる。彼は自分の罪を探し求めるのだ。いわば罰(世界から締め出されていること)が先にあって、その後を罪が追いかけるのである。長編小説『審判』は罪が罰の後を追いかける物語といってよい。
 カフカにおける物事の順序、秩序の逆転──はじめに罰があり、その後、罪を探し求める。女性との関係も、初めに性的行為があり、それから恋愛関係が始まる。
 このテクストは「掟」の「門」について語りながら「掟」そのものについては何も語らない。ましてや「掟」を宰領しているはずの神については、およそ示唆することもない。「田舎からやってきた男」とは、ユダヤ人と考えられる。門衛はチェコ人であることは、まず間違いない。この小品は、もともと『審判』の中で、ヨーゼフKがファイト大聖堂とおぼしき場所へでかけて、そこで教戒師から聞かされる話として設定されている。チェコ人によってユダヤ人が裁かれるという、『審判』の隠された構造を浮かび上がらせているとも考えられる。
 「掟」を単にユダヤ神秘思想という抽象レベルの観念に転化して考慮の枠から外してしまうのは、怠惰な読み方である。


 ジャック・デリダカフカ論<「掟の門前」をめぐって>

 道徳律はそれ自体としては現われることは決してないが、道徳律こそ尊敬の念を惹き起こす唯一の原因であり、尊敬の感情は道徳律にのみ由来する。(カント)
 定言的命令の第二の定式「あたかも汝の行為の格率が汝の意志によって普遍的自然法則となるように行為せよ」
 掟の審級はいっさいの歴史性、いっさいの経験的物語を排除し、掟の合理性は超越論的なものを含め想像力や虚構とはいっさい無縁だと思われる。
 掟が掟である限り、それはいかなる物語も許容してはならない。掟が絶対的権威を付与されるには、掟は歴史も起源ももってはならず、派生関係が可能であってはならない。これが掟というものの掟である。純粋道徳性は歴史を、内在的歴史をもたない。これがカントがわれわれに喚起している最初のポイントである。
したがって、掟について物語が語られるとき、その物語は掟の周辺の外的状況、外的出来事に及ぶにすぎず、せいぜいのところでも掟の顕現の仕方に関わるにすぎない。物語は、結局接近不可能なものの物語でしかない。
『掟の門前』とは、この接近不可能性、物語への接近不可能性の物語であり、不可能な物語の物語である。
Vor dem Gesetz という表現は、「掟が現前している前で」という風には受け取れない。田舎から来た男は、掟の前に立ってはいるが、決して掟には「直面」していないのである。掟それ自身は、決して現前しないからである。
入門の許可は一見すると拒否されているように見えるが、「しかし今はだめだ」という言葉が示すように、実は遅らされ、延期され、遅延されているだけである。すべては時間の問題であり、それが物語の時間をなしている。
掟は近づいてはならぬもの、姿を思い描いたり、想像したりできないもの、してはならぬもの、まさしくこれが掟の掟たるゆえんである。掟は自然的なものではないし、歴史的なものでもないし、制度的なものでもない。ひとは決して掟に到達できない。
掟については、われわれには何も言われていない。掟が何なのか。誰なのか、どこに見出されるのか。それは物なのか、人なのか、言葉なのか、声なのか、書かれたものなのか。こうしたことは、分らないままである。
ユダヤ教の律法と掟とのアナロジー
門番は複数の門ではなく、単数の(ひとつの)門を守っている。彼はこの特別な門の単一性を強調する。掟は多様性でも、また人が思うような普遍一般性でもなく、掟は常に一つの個別的な表現なのであって、そこにこそカント哲学の洗練がある。門番が守る門はおまえにしか関係しない。それは唯一無二であって、特別おまえだけに宛てられており、定められているのである。その男が自分の終わりに辿り着く──彼はもうすぐ死ぬのだから──その瞬間に、門番は、男が目的地(destination)に辿り着かないこと、そして彼の宿命(destination)
は彼のもとに訪れないことを彼に言いわたす。男は自分の終わりには辿り着くが、自分の目的には到達しない。辿り着かないことに辿り着くという出来事の物語の終末は、次のような言葉で終わる。「門番は、男の死期がせまったのを見てとり、遠くなっていく耳にも届くように大声でどなった。『ここではほかの誰も中に入ることはできなかった。これはおまえだけのための入口だったのだからな。さあわしは行くぞ、そしてこの門を閉める。』」
 テクストは、読解不可能性の裡で閉じられる。テクストは、物語自体を超えて同定し得るようないかなる内容も提示しない。同時に寓意的でもあり同語反復的でもあるカフカのこの物語は、明確な形での自己指示的な形式をもたないテクストであることによって、カフカ特有のエクリチュールを構成している。
 田舎の男は、掟への接近の個別性、特異性を理解することができなかった。

 『掟の門前』が語っている内容は、『審判』の中にすでにあらかじめ入れ子状に含まれている、と考えることも可能かもしれない。また逆に、『掟の門前』というテクストに『審判』の含意するすべてが逆─入れ子状に含まれているとも考えられよう。
 『掟の門前』のテクストは、引用符に囲まれて、僧侶によって語られる。そして、『掟の門前』をめぐって僧とKとのあいだでタルムード的釈義、解釈学的対話が交わされる。