「失われた《解釈》を求めて」──ナラトロジー的観点を軸に (『失われた時を求めて』に関する覚え書き)

  プルーストは、無意志的記憶と意志的記憶を区別するという心理学的な理論に基づいて自作の小説の構造を築いた。紅茶に浸したマドレーヌの味わいが、不意にコンブレーの町の記憶をすみずみまでよみがえらせたように、無意志的記憶のよみがえる瞬間が、人を時から解き放ち、永遠(超時間)へと近づける。しかし、もちろんこのような瞬間の積み重ねだけでは長編を構成しきれないので、意志的記憶に依存する散文も書かれることになる。
この作品を作者は自ら名前を引き合いに出している『人間喜劇』の作者バルザックや、『ニーベルングの指輪』の作曲家ワーグナーにならって構築している。それを証明するのが、物語の中に見られる反復と対称性である。つまり、ある事実が別の事実を予告し、その》事実が前の事実を発展させる物語の進め方である。ある一章、ある挿話、一人の登場人物が、別のより重要なものの草稿(エスキス)や素描になったりする。
 「土地の名・名」には「土地の名・土地」が、「スワン家の方」には「ゲルマント家の方」が、『囚われの女』には『逃げ去る女』が、「失われた時」には『見出された時』が対応している。
 ポール・リクールは、『失われた時を求めて』を、探求を一つの焦点とし、啓示の訪れをもう一つの焦点とする楕円として思い描くべきであると述べている。彼は、この二つの焦点のあいだの関係に、『失われた時を求めて』を時間についてのはなしとして捉える根拠を見ている。しかし筆者は、こうした平面幾何学的な表象によってではなく、物語の最後の場面に現われる成長する竹馬のイメージが象徴するように、「失われた時」と「見出された時」を垂直軸に延びる時間形象として立体幾何学的に捉えたい。竹馬の頂上に立って、下方に闇のように広がる失われた過去をのぞきこんでいるのが語りの現在における話者である。『見出された時』が『スワン家の方へ』と同じ時期に書かれたことを、われわれは忘れるべきではない。つまり、『失われた時を求めて』の作品群において、始まりと終わりが最初に存在したのである。この始まりと終わりのあいだに引かれる補助線の網が、作品を構成する原理である。
 この小説における「百科全書(百科事典)」的な側面も無視できない。プルーストの文体の特徴である長い文章は、複雑な社会的現実を捉えるために工夫された手法である。この小説の中に出てくる社会的・歴史的事件として最も重大なのは、ドレーフュス事件と第一次世界大戦である。前者は、事件の経緯そのものは直接たどられておらず、異なる作中人物の対立する見解に応じて、屈折した形で語られている。後者に関しては、病身の話者は前線に出征しなかったので戦闘場面は描写されないが、爆撃の被害を被ったパリ市内の惨状とか、戦争が引き起こした社会的混乱が描かれる。
 オデットのようないかがわしい生まれの女が、結婚によって階級を上昇していったり、逆にシャルリュス男爵(ゲルマント公爵の実弟)のような貴族が、同性愛への耽溺によって落魄してゆくさまを描くことによって、この小説はいわば社会構造を縦軸に沿って描き出し、さまざまな社会変動の断面図を提供している。「たとえばシャルリュス氏との出会いは(後に彼のドイツびいきからも同じようなことを教わったのだが)ゲルマント夫人ないしはアルベルチーヌに対する私の恋や、ラシェルに対するサン=ルーの恋にもまして、素材そのものはまったくどうでもよいこと、思考を通してすべてを作品に盛りこめるということを、私に納得させた。たとえば、普通の恋はそれ自体がすでに教訓に富む現象だが、それにもましてまるで理解されることなく不当に非難されてきた性的倒錯という現象の方が、いっそう真実を大きく見せてくれることが分かったのである。・・・・・・実を言えば、一人ひとりの読者は本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。作品は、それがなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械にすぎない」(鈴木道彦訳)。
 作者(語り手)は、睡眠と覚醒のあわい(目覚めと眠りのはざま)、すなわち半覚醒の状態から語り始める。「長いあいだ、私は夜早く床に就くのだった」と語り手は語り始める。「長いあいだ」という表現は、決して時間の明確な定位ではない。さらに読み進めると、「こうして私が真夜中に目ざめるときは、自分のいるところが分からないので、最初は自分がだれなのかもあやしい始末である」という文章に出会う。「スワン家の方へ」の最初の部分は、「いつ、どこで、だれが、なにを、どんなふうに」という五つのポイントが終始あいまいなままに語られる。プルーストは、自作『失われた時を求めて』について、「この小説は意識的記憶と無意識的記憶の区別の上に成り立っている」と述べたが、この二つの記憶は、知性の記憶と感覚の記憶と言い換えることもできる。そして感覚の記憶に対して、知性の記憶を優位に立たせないのが彼の根本的な立場である。
 作品の前半において(少なくとも「見出された時」に至るまでは)、語り手=話者はつねに主人公である「私」に先行する存在である。語り手である「私」と語られる存在である「私」とは、同一性の次元にはない。むしろ互いに隔たった存在、別人に近い存在であるといってもよい。語り手は、後ろ向きに過去の「私」を振り返りながら、「私」について語る。「語る私」と「語られる私」の関係は、単に経過した時間的距離によって隔てられた一義的な関係にあるわけではなく、曖昧で多義的な関係にあるといえよう。
 レオ・シュピッツアーは、そのプルースト研究において、『失われた時を求めて』における回想する「私」と回想される「私」との二重作用を、「卓越した《物語る私》と朦朧として鈍い《体験する私》という二つの自我の不可思議な二重作用」として捉えた。
 「物語る私」と「物語られる私」という図式が成り立つのは、物語内容の自伝的性格が明確な場合に限られる。プルーストの場合、両者のフィクション的特徴が顕著であるように思われる。プルーストの「私」は、「語り手」であると同時に、「主人公(マルセル)」であったり、両者の混合であったり、無名の存在であったりする。それは一義的な自己同一性(自我)でくくられる存在ではなく、村上春樹流に言えば、一種の「仮説システム」という構造を持っている。