H.M さんへ(過去の日記から)

ある受講生から、ポーの『黄金虫』とコナン・ドイルの『踊る人形』の両作品に見られる暗号解読の関連性について授業で扱ってほしいとの要望がありましたので、両作品をじっくり読んでみました。特にポーは推理小説の枠を越えて、描写の細部に不思議な輝きがあり、惹きこまれます。
  先日『僧正殺人事件』を本格派の古典中の古典などと持ち上げてしまいましたが、読む人によってはあまりに衒学的で辟易する人もいるかもしれませんね。ミステリは、読む人の好みや主観で評価が分かれるのはむしろ当然で自然なことかもしれません。その点クリスティの『そして誰もいなくなった』は読みやすく、誰でも面白いと感じると思います。若島正氏(京大教授)がナラトロジー的観点からこの作品を分析している論文を読みましたが、面白かったです。マザー・グースの唄をモチーフにしたこうした本格派ミステリは、いわゆるパズル小説とも呼ばれ、殺人の動機が犯人の人格性そのものから遊離しているために、そこに「形式化」の極致をみる批評家もいるわけですが、私はそれはそれで面白いのではないかと思います。その一方で、リアリズム的描写に徹した作品(たとえばロス・マクドナルドとかフランシス・アイルズなど)も読みたくなるのは自然な気持ちの流れでしょうね。
  ヴァン・ダインやクリスティの影響で、自宅に昔から置いてあったイラスト入りのMother Gooseを取り出し、谷川俊太郎訳を参照しながら読みましたが、イギリス伝承童謡のもつ残酷でグロテスクなもの、でたらめで野放図でナンセンスなもの、不道徳で奔放なものがこれほど新鮮な驚きを与えることに、改めて感心しました。イギリス人が幼児の頃からこうしたでたらめで奔放な伝承童謡に親しみながら、ちゃんと生活感覚のバランスを保っていることに懐の深さを感じます。「誰が殺した、コック・ロビンを?」といった言葉が持つ喚起力は、今でも好んでメディアの見出しなどに使われますね。
  ロス・マクドナルドは、これまでほとんど読んだことがなかったのですが、傑作と言われる『さむけ』を読んで感心しました。ハードボイルドタッチでありながら、ハメットやチャンドラーとは全く違った作風で、複雑な筋を展開しながら、人間心理の奥に潜む謎をえぐり出してくれます。独特の粘液質な語りが印象に残りました。
  NHKBSテレビで松本清張の『天城越え』を観ました。昔のテレビドラマの再放映でしたが、主演の大谷直子もまだ若くて、演技も魅力的でした。清張の作品は、常に人間性の深みに迫るような、ミステリーの枠を超えた要素を感じさせます。映画化された『砂の器』は、その意味で最高傑作といっても良いのではないでしょうか。