アルマ・マーラー著『グスタフ・マーラー』 (愛と苦悩の回想)

 アルマはエミール・J・シントラーの娘で、父の死後、カール・モルの養女となった。多くの芸術家たちに愛された彼女は、まさにウィーンという都市に生きたファム・ファタール(運命の女)というべき存在であった。音楽家グスタフ・マーラーの妻となり、その後、建築家ヴァルター・グロピウス、詩人フランツ・ヴェルフェルと結婚し、画家オスカー・ココシュカの恋人でもあった。アルマは1902年3月9日にマーラーと結婚するが、アルマはまだ21歳、マーラーは18歳年上であった。
 アルマは20歳のとき、ツェムリンスキーについて作曲を習うが、その際シェーンベルクに引き合わされる。最初シェーンベルクの師であったツェムリンスキーは、後に彼の弟子になる。「シェーンベルクの精神の独特の魅力の圏内にはいった者は、だれでも彼の傑出した知性ないしは彼の論理の力のとりこにされた。」(石井宏訳、中公文庫、147頁)
 1905年、ある日マーラーはリヒャルト・デーメルと彼の夫人を連れて自宅に現われる。いつもの常連、ロラー、クリムト、モーザー、アルマの母親、モルも同席。ワグナーについて激しい議論が始まる。手放しでワグナーを信奉するマーラーをはじめ皆がワグナーを弁護するのに対し、デーメルは「…いずれにしてもワグナーは阿片の感じですね。私は阿片はきらいだ」という。
 [1905年3月21日の日記より]
 昨日プフィッツナーが私の古い歌の作品を聴かせてくれという。彼は、私の歌をほ めてくれ、私には作曲の才があり、メロディに対する良いセンスがあるといってくれた。「そのうち何か一緒に仕事でもしませんか。今のようではあなたに気の毒だ」。なんというほろにがい喜びが体の中をかけめぐったことか。つかのまの歓喜
 [3月22日]
 ハウプトマンに会えて楽しかった。グスタフも一緒。この二人の話をきくのは楽しい。昨夜は、むしろプフィッツナーがいたのが悪かった。彼には狭いところがある。彼はワグナーの中にあるもっとも深く真実なものはゲルマニスム(ドイツ気質、ドイツ魂)であるという。マーラーとハウプトマンは、芸術家というものは、偉大になるほどその国籍を離れるものだといった。彼は芋虫のように身をもだえ、屈辱を感じながら先に帰ってしまった。(邦訳、155頁)

 ハウプトマンとマーラーの友情。マーラーはしだいにハウプトマンを好きになっていったが、ハウプトマンの思考の遅い点と、表現に凝っている点にはいらだちを覚えた。

 リヒャルト・シュトラウスとの交友。
 シュトラウスが≪サロメ≫を完成した時、マーラーに一度聴いてほしいと言った。彼がマーラーに、オスカー・ワイルドの≪サロメ≫に作曲するつもりだと語った時、マーラーは強烈に反対した。まず第一に道徳的な見地からの反対、それにカトリック系の国では公演が禁止される公算が大であることを理由に。その後グラーツで≪サロメ≫の初演を見る。シュトラウスは作曲家マーラーに対しては痛烈であるが、オペラの演出家としては評価していた。
 ユダヤ人問題。マーラーはもとからユダヤ教典礼にはまったく興味がなく、むしろカトリックの神秘性に強く傾倒していた。しかしたとえ自分がユダヤ教に否定的でキリスト教の洗礼を受けているにしても、それによって他人は自分がユダヤ人であることを忘れたりはしないことも知っていた。彼の前ではユダヤ人をからかうような話は禁物であった。彼は真剣に怒った。彼は自分のユダヤ性を決して否定しなかった。彼はキリスト教の信仰者であり、キリスト教徒のユダヤ人であった。
 ブルックナーのこと。マーラーブルックナーに対する敬愛の念は一生変わらなかった。ニューヨークに行ってからも、ブルックナー交響曲を演奏した。

 「ぼくは三つの意味で家無しだ」とマーラーはよく言っていた。「ボヘミア生まれのオーストリア人、ドイツ連邦内のオーストリア人、そして世界に家なしのユダヤ人。どこに行っても<よそ者>で、けっして歓迎されない。」(邦訳、195-96頁)

 ある夏、ブラームスマーラーはイシュルの近くを連れ立って散歩していた。橋のところまで来て二人は黙って立ち止り、山の清流の泡を噛むのを見ていた。ついそれまで二人は音楽の未来について熱っぽい議論を交わしていたところであり、ブラームスは若い世代の音楽家について手厳しい点のつけ方をしていた。そして今二人は次から次へ石の上で泡を噛んでは流れて行く水を眺めながら感動していた。やおらマーラーは上流を見やり、次から次へと果てしない渦巻きの流れを指さした。そして「終わりがあるものでしょうか」と、彼はにっこりしながらたずねた。(199頁)
 
 マーラーは、その晩年においては、戦う音楽家たち、とりわけシェーンベルクに対して援助役をつとめた。シェーンベルクの室内交響曲が音楽協会のホールで演奏された夜、アルマはマーラーと遅くまでシェーンベルクについて語り合う。「ぼくには彼の音楽はわからない」と彼は言った。「しかし彼は若いし、彼のほうが正しいのだろう。ぼくは年寄りで、いうなれば耳がついて行けないんだ。」
 しかし、シェーンベルクの音楽がこれほどマーラーを動かすには、なにか隠れた理由があったにちがいない。それでなければ、これほどはなばなしく彼の擁護者となることはなかったはずだ。本人自身は気づかないまでも、シェーンベルクという天才が、最初に切りひらいている苦難の道を、マーラーのほうは知っていたのではあるまいか。彼が切り開いた新しい道は、リヒャルト・シュトラウスを初めとする同時代の人たちの後期の作品によって、改めて踏査されてきている。
 マーラーの努力によってウィーンの≪オペラ≫は夢想もしなかった高さまで引き上げられた。指揮者フランツ・マルクを発見したのは彼であり、ブルーノ・ワルターをドイツから連れてきたのも彼であった。彼はワルターを高く評価し、この若くて才能に恵まれた指揮者の助力に対して大いなる期待を寄せていた。
 ワルターは、マーラーの音楽家として、作曲家としての偉大さを生前からすでに完全に理解していた。彼の死後、ワルターは指揮者としての自らの偉大で崇高な芸術を、マーラーの音楽を全世界に広めることに捧げた。
 
 シュトラウスの≪エレクトラ≫の初演が、この頃(1910年)マンハッタン・オペラ・ハウスで行われた。マーラーはこの作品がいやでたまらず、途中で席を立とうとした。聴衆の反応は逆であった。それは大成功で、ある人は「<ひどく>よい」と評したが、言い得て妙であった。

 (1910年、パリでの第二交響曲の公演)……次に、私はドビュッシー、デュカス、ピエルネがマーラー交響曲の第二楽章の途中で立ち上がって出て行くのをみた。そのこと自体は文句を言う筋合いのことではないかもしれないが、あとでこの人たちの言うことを聞けば、マーラー交響曲シューベルトそっくりであり、そのシューベルトでさえこの人たちにとってはあまりにも異国的な、ウィーン的な、さらにはスラヴ的なものだというのだった。(304頁)

 1910年夏 アルマが、若い建築家ワルター・グロピウスと知り合い、彼に愛を告白されて、マーラーは精神の根底から動揺する。
 マーラーは、ジークムント・フロイトに相談しようと思い立つ。彼がフロイトに自分の心の異様な状態と不安感を説明すると、フロイトは鮮やかに彼の精神を鎮静させてくれる。彼はマーラーの告白をきいて、激しく彼の誤りを責めたという。「どうしてあなたのような身分の方が若い女に一緒にいてくれと頼む気になるんですか」と彼は聞いた。彼の結論は以下のようだった。「私は君の奥さんを知っている。あの人は父親を愛しており、父親に似た人間しか選ばないし、愛さないのだ。あなたの年齢は、あなたはひじょうに恐れているようだが、実はあの人にとっては魅力のある年齢だ。だから心配することなどない。一方、あなたは自分の母親を愛している。それで、あらゆる女のうちに自分の母親のイメージを求めている。あなたのお母さんは、生活に疲れ、やつれ果てていた。あなたは無意識のうちに、自分の奥さんを同じ目に会わせたいと望んでいるのだ。」
 フロイトの言ったこの二つはともに当たっていた。グスタフ・マーラーの母の名はマリーといった。彼の最初の頃の衝動は、私の名前をマリーに変えようということだった。…さらに私を知るにつれ、私の顔がもっと「悩みを持っている」ほうがよいと言った。ある時彼が私の母に、私があまり苦労をしないでそだってきたのは残念なことだ、というと、母はこう答えた、「だいじょうぶよーーいまにそうなるから」と。
 私も、求めるのは、小柄で、やせて、頭がよく、精神面の秀でた男性ばかりであった。それは、私が知っており、愛している私の父の面影なのである。
 フロイトの診断は、マーラーの精神状態を変えることができた。(313-14頁)

 「私には彼の最後の様子はけっして忘れないし、死が近づいた時の彼の顔の立派さも
瞼に焼きついている。彼の、永遠の価値のあるものを求めるための闘争、俗事からの超越,真理に対する不退転の献身、などはいずれも、聖者の生涯の生きた範例であった。」(結末の文章)


           
    
 
  訳者あとがき・解説など
 マーラーリヒャルト・シュトラウスの両者は、音楽的な出発点(主としてワグナ)も似ており、仲のよい、互いに尊敬できる友人であり、音楽史的にもシェーンベルク以前の最後のロマンティストとして似た位置にある。ただシュトラウスが、より職人的で、よりオペラに傾いていたとすれば、マーラーはより観念的、精神的な部分でいつも音楽を夢想していた。
 シュトラウスは≪サロメ≫や≪エレクトラ≫などの作品でポスト・ワグナー的な芸をやってみせるのだが、マーラーはあれほど好きだったワグナーのぎらぎらとおどろおどろしい世界には縁がなく、彼の音楽は終始一貫して清冽な素朴派のトーンを維持している。マーラーは職業としてはオペラの指揮者であったが、本人はこのドラマという人間的な、あまりに人間的な匂いの立ちこめる芸術には見向きもせず、神と自然に対する賛美歌を歌い続けるのである。
 アルマは、偉大な観念にとらわれた苦行僧のような、しかし現実には駄々っ子のような一つの矛盾した人格に出会い、魂の啓示を受けると同時に、その子供特有の残酷さに斬られ傷つく。マーラーの生前から、彼女はワルター・グロピウスに誘われ、かなり心を動かすわけであるが、そのグロピウスとの結婚生活の、ある意味でマーラーとのそれの逆の意味での現実的な幸福が、マーラーとの生活の思い出(たとえそれがどんなに痛々しく不幸だったとしても)を消してしまうことを彼女は恐れた。
 この回想記の中で、彼女は一切の上品な記述を拒否し、一切を白日のもとにさらけ出している。マーラーも裸になり、シュトラウスも無残に裸にされている。そのために、どんな伝記にも出ていない、血の通ったシュトラウス像が出ている。
 彼女は、ナチス第三帝国の暴虐に対する挑戦状として、この回想記を1940年オランダで出版した。この書で斬られた人たちはまだ各地に生きており、マーラー愛する人たちですら彼女のマーラー像を好まないという状況であったが、彼女は敢えてこの本の生前の出版に踏み切ったのであった。「彼女のこの回想録のスタイルは、事実の羅列ではなく、大きな事件を中心に、むしろ≪意識の流れ≫的な構成をとっている」。数多くの印象的なシーンが鮮明に活写されているが、特に最後の一章は涙なくしては読めないといってもよいだろう。
 アルマ・マーラーは画家シントラーの娘として1879年に生まれ、彼女が13歳の時に父親に死なれ、母は父の弟子カール・モルと再婚する。彼女は死んだ父が好きであり、新しい父は嫌いであった。ここにフロイトの指摘するコンプレックスの状態がある。18歳も年上のマーラーと結婚したのも、この心理に関係があるだろう。才能に恵まれ、社交界の大輪の名花として数多くの男たちを魅了した彼女は、1964年、彼女の愛したニューヨークで85歳の生涯を終える。
 この回想記は、客観的な研究資料として読まれるべきではなく、「ファム・ファタール」的な数奇な生涯を送った一人の女性の≪詩と真実≫として読まれるべきであろう。