小説の一人称形式の語りの特徴(2)

 一般に一人称の語り手(私)による小説の場合、とりわけ自叙伝的な小説の場合、「語る私」と「体験する私」との間に二極構造的な緊張関係が見られるのが普通である。たとえばディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』のような作品において典型的に見られるように、そこでは齢を重ね成熟した語り手(「語る私」)が若き日の無軌道ともいえる自分(「体験する私」)を振り返って、さまざまな感慨や内省を述べるという構図が基盤となっている。しかも「語る私」は、己れの過去の生を回想する回顧的な能力を意味するだけでなく、己れの過去の生を想像力の中で再創造する能力も秘めている。つまり再生的な回想能力と生産的な想像力の両者が相俟って、「語る私」の物語り行為が発動するのである。
 いずれにしても、18世紀ならびに19世紀の伝統的な自叙伝風の一人称小説においては、「語る私」と「体験する私」との間にめぐらされる緊張関係が、語りのダイナミズムを生み出している。現代小説ではどうであろうか。極端な例を挙げるとすれば、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』では、そのコロキアル(口語的)な物語りスタイルが、語りの遠近法をもっぱら「体験する私」の視点へ集中する効果をもっている。
 J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の中で、主人公の少年は、本当に素敵な本というのは、それを読み終わった時に、それを書いた作者が自分の素晴らしい友達で、好きな時に電話で呼び出せるのならいいのにと思えるような本だ、と言っているが、一人称の語り手はまさにそのようなコミュニケーション的状況に最も近い存在だということができる。
 サリンジャーの主人公ホールデン・コールフィールドは、彼の物語を次のように語り始める。(比較の為に二種類の和訳を掲げる。)

  もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとかチャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやっていたとか、そういった『デイヴィッド・カッパーフィールド』式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。第一、そういったことは僕には退屈だし、第二に、僕の両親てのは、自分たちの身辺のことを話そうものなら、めいめいが二回ぐらいずつ脳溢血を起こしかねない人間なんだ。そんなことでは、すぐ頭に来るほうなんだな。特におやじのほうがさ。いい人間ではあるんだぜ。だから、そういうこと言ってんじゃないんだ。けど、すごく頭に来るほうなんだな。それに、僕は何も、自叙伝とかなんとか、そんなことをやらかすつもりはないんだからな。
         ( J・D・サリンジャーライ麦畑でつかまえて』野崎 孝訳)
   

  こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたとか、どんなみっともない子ども時代をおくったとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたとか、その手のデイヴィッド・カッパーフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。ではっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。そんなこと話したところであくびが出るばっかりだし、それにだいたい僕がもしそういう家庭の内情みたいなのをちらっとでも持ち出したら、うちの両親はきっとそろって二度ずつ脳溢血を起こしちゃうと思う。そういうことに関してはなにしろ感じやすい人たちなんだ。とくに父親の方がね。いや、うちの両親はいい人たちだよ。そういうことじゃなくさ、ただやたら感じやすいんだってこと。それに僕としちゃ何も、頭からそっくり自伝を聞かせようとか、そんなつもりはないんだ。
      (J・D・サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ村上春樹訳)


 ホールデンの下す評価や判断の青臭さも、ティーンエイジャー・スラングの混じったその言い回しだからこそ生きるのである。このテクストに見られる物語り行為のやむにやまれぬ勢い
とか、その告白的性格は、すべて一人称小説という語りの形式に依存している。作品の中でホールデンが、ディケンズの描く『デイヴィッド・コパフィールド』のような成長物語をインチキで嫌いだと言うのは、象徴的である。自らの成長のプロセスを描くためには「語る私」の内省的な視点、つまり成熟した「語る私」と未熟な「体験する私」とを隔てる時間的距離が必要であるけれども、ホールデンにとっては成長とか発展などおよそ眼中にない。
 この作品の基本的なテーマは、図式的に言ってしまえば、大人社会のインチキで嘘っぽい欺瞞性に対して、神経症的な傾向をもつニューヨークのブルジョアの息子である16歳の少年が、自らのイノセンス(純真無垢)を守るために反抗する物語という風にまとめられる。
 1964年に出版された野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』は、大人社社会に対するアグレッシヴな反逆という対立図式が強く出ているために、明快で分かりやすく、歯切れのよさとスピード感をもって読める。一方、40年ぶりに出版された新訳、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』では、むしろ自分の内面に抱え込んでいる葛藤に向き合うような形での主人公の姿勢が出ているために、それなりの主人公の感情の動きに沿ったペースで読まされる。ホールデンはランディングする場がなかなか見つからない一種の「宙ぶらりん」の状態にいるが、その「宙ぶらりん」の感じがよく出ている。