カフカの「語り」(3)

 体験話法は、一般的に三人称の人物の思考過程もしくは言葉に表現されない意識の流れを、三人称の直説法で、しかもたいていは過去形で再現する形式である。体験話法は、語り手と作中人物の視点をダブらせ、両者の境目が定かでないようにする手法でもある。つまり、語り手が作中人物の内面へ身を移し入れ、その人物の視点から語ることによって、語り手の声と作中人物の声とを二重化する方法である。
  Sie sah nachdenklich aus dem Fenster. Mußte sie wirklich die große Reise antreten?
 「彼女は思いに沈みながら窓の外を見た。本当にその長い旅に出ねばならぬのでろか?」
 この例文は体験話法で書かれているが、語り手の視点は、ほとんどそれと気づかれぬように、作中人物の視点に移行している。ここで注目しなければならない点は、体験話法の過去時制が過去的意味を喪失してしまっていることである。すでに述べてように、体験話法は、直接話法と間接話法の中間的話法である。体験話法において、語り手の視点は作中人物の心の中へ移され、読者はほとんど直接的に作中人物の内面に関与することになる。
 すでに述べたように、カフカは『城』を最初一人称で書いたが、途中で三人称(Kという人物)の物語に書き替えている。
 最初の一人称形式のテクストと三人称に書き替えた形式とを、比較してみよう。最初にドイツ語原文を掲げる。主人公のKが、バルナバスという男に「城」とおぼしき所へ向かって案内されていく場面である。

 Da blieb Barnabas stehen. Wo waren wir? Ging es nicht mehr weiter? Würde Barnabas mich verabschieden? Es würde ihm nicht gelingen. Ich hielt Barnabas'Arm fest, daß es fast mich selbst schmerzte. Oder sollte das Unglaubliche geschehen sein, und wir waren schon im Schloß oder vor seinen Toren? Aber wir waren meines Wissens gar nicht gestiegen. Oder hatte mich Barnabas einen so unmerklich ansteigenden Weg geführt? "Wo sind wir?" fragte ich leise ...
 そこで、バルナバスは立ちどまった。ここはどこなのだろう? これ以上先には行かないのだろうか? バルナバスはここで私と別れるのだろうか? 彼にはそれはうまくいかないだろう。私は彼の腕をしっかりつかんでいたので、ほとんど身体に痛みを覚えるほどだった。それとも、信じられないことが起こりでもしたのだろうか? それで、われわれはすでに城の中か、さもなくば城門の前にいるのだろうか? でも私の知るかぎり、われわれは全然坂道は登っていなかった。それともバルナバスは、気づかぬうちに登っていく道を通って私を案内してきたのだろうか? 「ここはどこなんだ?」と、私は低い声でたずねた……

 次にカフカが『城』の主人公をkに変えた同じ個所を、原田義人訳と前田敬作訳によって読んでみよう。

 ふと、バルナバスは立どまった。自分たちはどこにいるのだろうか。バルナバスはkと別れるのだろうか。そんなことはうまくできないだろう。kはバルナバスの腕をしっかとつかんでいたので、ほとんど自分の身体が痛いほどだった。それとも、信じられないことが起こって、二人はもう城のなかか、城の門の前まできているのだろうか。しかし、kの知る限りでは、彼らは登り道をやってきたのではなかった。それともバルナバスは、気づかぬうちに登っていく坂道を案内してきたのだろうか?
 「ここはどこかね?」と、kは低い声で、相手によりもむしろ自分に向ってきくような調子でいった。(原田訳)

 と、そのとき、バルナバスが立ちどまった。ここはどこだろう。もう道は尽きたのだろうか。バルナバスは、自分をここで袖にしてしまうつもりなのだろうか。Kは、バルナバスの腕にしっかりしがみついていたので、自分でも痛いくらいだった。それとも、信じられないようなことが起って、もう城のなかにいるのか、城門のまえに立っているのだろうか。しかし、Kがおぼえているかぎりでは、登り道は歩かなかったはずだ。あるいは、バルナバスは、それと気づかないほどゆるやかな坂道をつれてきたのだろうか。
 「ここは、どこかね」と、Kは、相手にというよりも自分自身に小声でたずねた。(前田訳)


 次に引用するのは、主人公(「私」)と助手たちとの最初の出会いの場面(初稿第二章)である。

 「きみたちは何者なんだ」と私はたずね、一人からもう一人へと目をやった。「あなたの助手です」と、彼らは答えた。「この人たちは助手ですよ」と、亭主低い声で請け合った。「何だって?」と、私は問いかえした。「君たちが、後から来るように言いつけておいた、あの私が待っている昔からの助手だって?」彼らはそうだと言った。「それはいいや」と、私は少ししてから言った。「君たちが来てくれてよかった」「ところで」と、私はもう一度少し間をおいてから言った。「君たちはひどく遅れたね。君たちはひどくずぼらだな」
"Wer seid ihr" fragte ich und sah von einem zum anderen. "Eure Gehilfen", antworteten sie. "Es sind die Gehilfen", sagte leise der Wirt. "Wie?" fragte ich.
"Ihr seid meine alten Gehilfen, die ich nachkommen ließ, die ich erwarte?" Sie bejahten es. "Das ist gut", sagte ich nach einem Weilchen, "es ist gut, daß ihr gekommen seid". "Übrigens", sagte ich nach einem weiteren Weilchen, "ihr habt euch sehr verspätet, ihr seid sehr nachlässig".

 次に決定稿の同じ個所を、原田義人訳と前田敬作訳で引用してみよう。

 「君たちは何者なんだい?」と、彼はたずね、一人からもう一人のほうへと眼をやった。
「あなたの助手です」と、二人が答えた。
「これは助手さんたちですよ」と、亭主が低い声で裏づけをするようにいった。
「なんだって?」と、Kはきいた。「君たちが、くるようにいいつけておいた、あの私が待っている古くからの助手だって?」
二人はそうだという。
「それはいい」と、ほんの少したってからKはいった。「君たちがきたのはありがたい」
「ところで」と、Kはさらに少し間をおいてからいった。「君たちはひどく遅れてやってきた。君たちはひどくずぼらだな」(原田訳)
 
 「きみらは、だれだ」と、Kは言って、一人ずつ順にながめてみた。
 「あなたの助手です」ふたりは、答えた。
 「これは、助手でございますよ」と、亭主も、小声で口添えをした。
 「なんだと」と、Kは、問いかえした。「おまえたちは、あとから来るようにと言いつけておいて、おれが待っていた昔からの助手だというのか」
 ふたりは、そのとおりだと答えた。
 「まあ、よかろう」と、Kは、しばらくしてから言った。「きみたちが来てくれたのは、いいことだ」それから、さらにしばらくしてから、「それにしても、着くのがひどくおそかったじゃないか。おまえらは、しょうのないなまけ者だ」(前田訳)

 
 初稿では、われわれ読者に語り手の話した言葉は示されているが、語り手の発話されていない思考は示されていない。少しの間(二つの Weilchen)という言葉が、各々の応答に先行しているが、それは決して書かれることのない主人公(「私」)の反応を暗に示している。前には目もくれることもなかった二人の男を自分のかつての助手として歓迎し、そしてその後で「ずぼらだな」といって叱りつけるという行為も不可解である。
 それに対し、われわれがこの場面を決定稿で読むと、Kは不思議な人物だと承服できる。しかし、これを一人称形式で読むと、この不思議な人物の存在は受け入れがたいものとなる。つまり、三人称形式の物語の語り手のみが、その登場人物(主人公)の意識を自由に隠蔽したり、また提示したりすることができるのである。
 初稿の語り手(主人公=私)の心理の途切れ途切れの不透明性さ、あるいは辻褄の合わなさこそが、『城』の初稿の最も重要な問題点なのである。一人称形式によって不透明な自己の心理を表現することの問題性、言い換えれば、過去の「体験する私」と「現在の物語る私」とを結びつける繋がりの破綻、こうした不調和がカフカに『城』を一人称小説とし書き続けることの困難さを次第に認識させていったのである。
 こうしてカフカは、一人称小説を三人称小説に書き換えることによって、換言すれば、一人称の「語り手」を三人称の「映し手(視点人物)」に変換することによって、小説そのものの叙法を転換し、作品を書き続けることができたのである。