カフカの「語り」(1)

 カフカが1912年秋に一夜で一気に書き上げた『判決』の最後は、「この瞬間、橋の上にとめどない無限の雑踏が始まった。」という一文で終わる。この最後の幕切れをめぐって、カフカ研究者によってさまざまに論議されている。この最後の一文は、一体なにを言おうとしているのであろうか?
 この部分の解釈をモーリス・ブランショは、『カフカ論』(栗津則雄訳)で
「息子が、その父親の認容することも反論することもできぬ宣告に応じて、彼に対する静かな愛の言葉を口にしながら、流れに身を投ずるだけでは充分ではない、この死があの奇妙な結びの文章によって、生活の継続へ結びつけられなければならないのだ、『その瞬間、橋の上には、文字通り狂ったような馬車の往還があった』というのがその文章だが、カフカ自身も、この文章の象徴的価値と、明確な心理的意味とをはっきり認めている。」としている。 
カフカは、マックス・ブロートに、『ぼくはあのとき猛烈な射精のことを考えていたのだ』と語っている。あるカフカ研究者によれば、これはようやく自らの天職は文学以外にはないと確信した息子の父母への訣別の辞である。最後の一行を書きながらカフカがイメージした『猛烈な射精』とは、そのことに関連している。射精とは脱父母(父母の保護を抜け出て独立する)の第一歩だからである。これは主人公ゲオルクの自己への道を進む過程として読み取ることもできる。それはまた作者カフカ自身の内的ドラマとも見ることができる。
In diesem Augenblick ging über die Brücke ein geradezu unendlicher Verkaehr.  「その瞬間、橋の上ではまさに果てることなく往来が続いた。」

 次に引用するのは、カフカの『変身』の中の一節である。 
 「グレゴールは、さらに前へ這って出て、頭を床すれすれまで低くした。うまくすると妹と目を合わせることができるかもしれない。こんなにまで音楽に心をつかまえられるとは、(俺は)やはり動物なのであろうか。待ちこがれていた未知の栄養への道が、見えたような気がした。」
Gregor kroch noch ein Stück vorwärts und hielt den Kopf eng an den Boden, um möglicherweise ihren Blicken begegnen zu können. War er ein Tier, da ihn Musik so ergriff ? Ihm war, als zeigte sich ihm der Weg zu der ersehnten unbekannten Nahrung.
 (斜線部の解釈について、ナボコフは独特の解釈をしている。つまり一般的な意味で音楽は文学や絵画よりも聴き手により感覚的、より直接的な印象を及ぼすという点で、より原始的、より動物的な形式に属するという解釈である。もちろん、これには異論もあるかもしれない。斜線部は、体験話法と受け取るのが妥当かもしれない。「こんなに音楽に感動するのは、(俺は)やはり動物なのだろうか」。)
 J.オースティンは『分別と多感』を一人称形式の書簡小説として構想したが、後にそれは三人称小説に書き換えられた。G.ケラーの『緑のハインリヒ』は、ためらいつつ熟慮したあげく、三人称形式から一人称形式へと書き換えられた古典的な改作の例である。F.カフカは、もともと一人称で書かれていた小説『城』の第一章の草稿を三人称形式に書き改めた。作家にとって、一人称形式と三人称形式のどちらに決めるかという問題は、単に文体論的な作法の問題ではなく、物語の構造に関わる問題なのである。
 ケーテ・ハンブルガーは、「あらゆる言表は現実言表である」という前提から、彼女のフィクション理論を展開する。すなわち彼女によれば、正確な意味でのフィクション的な語りは、三人称物語のみであり、一人称の語り手が語る物語は、厳密な意味でのフィクションではないという。つまり、一人称小説においてのみ、一人の人格化された語り手が、過去の体験や、目撃したり見聞した事柄を報告できるのに対し、三人称小説のフィクションでは、語り手ではなく非人称的(無人称的)な「物語機能」が行なう描出行為が「語り」と呼ばれるのである。
 いわゆる語り手が存在するのは、一人称小説のフィクション的語りにおいてだけであって、三人称小説においては語り手ではなく無人称的な「物語機能」が作用しているだけである、というK.ハンブルガーの立論に対してはさまざまな異論が唱えられているが、この問題に関してはE.バンヴェニストの人称理論が、鋭い照射を与えるように思われる。バンヴェニストによれば、一般的に人称は《わたし》と《あなた》の立場にのみ本来的なものであって、三人称は、その構造自体の性質によって、非人称的なのである。わたしが《わたし》という語を用いるのは、わたしが誰かに話しかけるときであり、その誰かがわたしの話しかけのなかで《あなた》となる。(しかもこの関係は、いつでも反転しうる。)この対話の条件の中でこそ、人称が構成されうるのである。
したがって一人称(「話す者」)と二人称(「話しかけられる者」)は、話(わ)の現存の中にいる者であるが、三人称はその場にいない者なのである。三人称の地位である「彼が…」「彼女が…」という形は、それが必ず《わたし》によって言表される話(わ)に属することによって、その存在価値を得るのである。
 一人称の語り手である《わたし》は、他の作中人物に向かって《あなた》と呼びかけうる存在(体験する私)であるとともに、読者に向かって《あなた》と呼びかけうる存在(物語る私)でもある。