カフカの『城』とは何か。

        
            ラティボジツェ城
 カフカが『判決』や『審判』、『変身』などを書く時、彼の書く物語(レシ)には、話を占有する登場人物たちが描かれていながら、それと同時に、カフカと彼自身の話しか描かれていない。
 おそらくこれは、作者─語り手─主人公という三者が同一視点(視点の一致)を持った存在である、というカフカ特有の語りの構造から生まれる事態であろう。
 内的な真実を純粋に表現するというカフカの理想は、物語のパースペクティヴを厳格に作中人物に限定すること、そしてそれと関連して、すべてを知っている話者(全知の語り手)を排除することを実質とする特殊な物語形式を基盤にしている。フリードリヒ・バイスナーによれば、カフカの芸術の独自な真実性はこのような「一元的な物語のパースペクティヴ」に基づいている。
 書きおろす瞬間に作中人物の感情と作者の感情が可能なかぎり一致していることは、カフカにとって最高の価値を意味した。そのようにして達成された作者とテクストの一致は彼にとって作品の真実を形成するものであり、したがって読者もまたその真実の中に包容されるのである。
 1914年12月の日記の中で、カフカは物語るという行為には二重性が含まれていることを、きわめて明確に認識している。カフカにとっては「自分自身の姿」が文学の第一の、そして結局は唯一の対象であり、その姿は彼にとってあらゆるつくられた作中人物の範例でありつづける。それによって、そこにこそカフカにとって書くことの真実があった。物語るという行為、いや、叙述するという行為においてすでに、自我は書くひとと叙述されたものとに、つまり物語ることの主体と客体とに分裂する。書いている自我が自分を叙述すべき対象と考えはじめる瞬間に、書くひとと書くことの完全な一致は存立しえなくなる。すなわち書くことと書くひととの一体性は、分裂してしまう。
 書くことを「冗談」であるとするカフカの見解は、彼の作品の「演技」との比較─あるいはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」との比較すらをも、説得的なものと感じさせる。ただしカフカの「演技」は、カフカの絶望そのものであって、彼の意図ではないことを忘れるべきではない。カフカの作品、とりわけ『城』の曖昧性、多義性は「演技」という側面からの読解をわれわれに迫ってくるように思われる。
 ある冬の晩、Kは、雪深い村の宿屋にたどり着く。この村はヴェストヴェスト伯爵の城の所領であり、彼はこの城に雇われた測量士であると自称する。宿屋の酒場を借りて一夜を過ごしたKは、翌朝城を目指して歩いていくが、城へ通じる道を見つけることができず、百姓家で一休みして宿屋に戻ると、もう日が暮れてしまう。宿屋の戸口には、その日道端で見かけた二人組の男が立っている。アルトゥールとイェーレミアスと名乗るその見知らぬ2人は、Kに追いついてきた彼の昔ながらの助手であると言う。
助手たちの話によれば、許可がないかぎり城に入れてもらうことはできないらしい。そこで、Kは、城の執事に電話をかけ、いつそちらに向かえばよいかと聞くと、永久に駄目だという返事が来る。そこに城からの使者だというバルバナスという男がやって来て、Kに手紙を渡す。その手紙は城の長官クラムからのもので、それによればKの直接の上官は村長であるという。Kは、城に連れて行ってもらえるのではないかと期待して、バルナバスと連れ立って宿を出るが、期待に反して彼がたどり着いた先はバルナバスの家であった。
Kは、バルナバスの妹オルガに宿屋に連れて行ってもらう。しかし、そこははじめにKが止まっていた「橋屋」ではなく、城の役人が泊まる「貴紳荘」であり、今まさにKの長官クラムが滞在しているという。Kは、その酒場で給仕をしていたフリーダに一目惚れをする。彼女はもともと「橋屋」の女中であったが、その後「貴紳荘」のホステスに出世し、今はクラムの愛人でもあるという。しかし、Kと彼女はカウンターの下で愛し合い、翌日連れ立って「橋屋」のKの部屋に移り住む。次の日、Kは、「橋屋」の女将からフリーダに対する責任について詰め寄られる。
その後、Kは、助手2人を連れて村長のもとを訪ねるが、村長は現在、測量士を全く必要としていないという。Kは、村長から城の行政機構の仕組みを長々と聞かされたのち、何の成果もなく宿屋に戻る。すると、宿屋の2階に、Kが到着初日に道端で会った小学校教師が待っている。彼は、村長の使いであり、Kに測量士として雇うことはできないが、学校の小使としてなら雇うことができるという伝言を伝える。Kは、最初拒絶するが、フリーダからの提案で小使の仕事を引き受けることになる。・・・
 カフカは1922年1月から2月にかけて、現在ポーランドチェコの国境高地にあるシュピンドラーミューレのホテルに滞在しており、『城』はこのホテルでの滞在初日から書き始められた。それから3ヶ月ほどで半分あまりを執筆し、3月半ばにはマックス・ブロートに冒頭部分を語って聞かせている。しかし次第に行き詰るようになり、9月に最終的に放棄された。この間の6月、カフカ結核により勤めていた保険局を病気退職している。
作品は大判のノート6冊に書かれており、25の区切りのうち19に章名にあたるものが付いている。ブロートはこれを再構成し、20章のまとまった章にして出版した。カフカのほかの多くの草稿と同じくこの作品にも作品タイトルに当たるものがつけられておらず、ブロートはカフカが生前「城の物語」と表現していたことに基づいて『城』のタイトルをつけた。


 カフカがボジェナ・二ェムツォヴァーの作品『おばあさん』を読んでいたことは、「ミレナへの手紙」によって分かることは、すでに指摘されている。カフカがある友人にチェコの書物(『おばあさん』)を譲ってくれるよう頼んだ時、友人がドイツ語の翻訳を渡そうとしたので、カフカは自分が欲しかったのはチェコ語の原作で、翻訳書ではないと断ったという。

ボジェナ・二ェムツォヴァーの作品『おばあさん』(来栖継訳)について

 まるでシュティフターを思わせるような細やかな筆致で、北部ボヘミア地方の山村を舞台にして、四季の自然の推移や、多くの孫たちに囲まれての祖母の日々の営みが淡々と描かれている。語り手はおばあさんであるが、物語の流れは決してスローテンポではなく、読者を退屈させることはない。おばあさんの夫のイージーは、プロシアの軍隊に勤務していた関係で、おばあさんと三人の子供たちはシレジアに十五年間住んでいた。イージーは戦争の際大砲の弾に当った傷がもとで亡くなる。おばあさんは異国でドイツ語に苦労しながら暮らすより、故国チェコで暮らす方がよいと思う。ドイツの地にとどまらない限り、生活の保障は何も期待できないという状況であったにもかかわらず、異国の地で祖国と母国語を愛することを子供たちに教えることがかなわないことを悟り、おばあさんは故郷のチェコへ帰ることを決心する。おばあさんは三人の子供を連れて、さんざんな苦労をしたあげく徒歩で故郷の村へ帰ってくる。
 三人の子供のうち、息子のカシバルは学校を卒業してから織物職人の技術を覚えたいということで,修業の旅に出る。そしてウィーンにいるおばあさんの従妹が村へやってきて、長女のテレスカが気に入り、一緒にウィーンへ連れ帰って世話をしたいと申し出る。テレスカは、ウィーンでドイツ人男性と結婚し、末娘のヨハンカもウィーンへ行ってしまい、おばあさんは独りだけ村にとり残されることになる。その後、ウィーンで暮らす上の娘テレスカ、つまり現在のプロシュコヴァー夫人からおばあさんに手紙が来る。手紙によると、娘テレスカの夫がある公爵夫人に厩頭として雇われ仕えるようになり、その公爵夫人はおばあさんが住んでいるボヘミアの村のすぐ近くに領地をもっており、その関係で今度公爵夫人に随行してその領地へ、テレスカの夫プロシェクは一家をあげて移住することになっているが、夫は毎年公爵夫人が滞在する夏の間しかそこにいられないことを理由に、おばあさんも是非そこへ移住して、娘や孫たちと一緒に暮らしてもらいたいと懇願する内容の手紙であった。おばあさんはさんざん悩んだあげく、行くことを決心する。実はここから物語が始まるのである。おばあさんの上の娘テレスカはドイツ人のプロシェクと結婚していて、今はプロシュコヴァー夫人と呼ばれ、二人の間に生まれた長女はバルンカという名前であったが、このバルンカこそが作者ニェムツォヴァーのモデルといわれる人物である。この物語には、ほとんど実在の人物ばかりが登場するようであるが、物語の中身は虚実取り混ぜて、さまざまなフィクションが絡み合い、魅力的な物語世界が構築されていることは言うまでもない。
自分の娘や孫たちと一緒に暮らすようになったおばあさんは、まめまめしく家の手伝いや畑仕事をしたり、仕事の合間には孫たちに谷間の村に伝わる伝説や昔話を語り聞かせてくれる。おばあさんの話す物語を通じて、孫たちは人間として生きていく上で大切な事柄を学んでゆく。おばあさんはただ優しいだけでなく、必要とあれば、容赦ないもの言いで子供たちをたしなめるのであった。村に古くから伝わる風習や四季の移り変わりの中での自然の営みを観察したり、いろいろな生き物たちに接触したりすることによって、孫たちは成長し、生きていくために必要な知恵を身につけてゆく。毎年季節とともにめぐってくる祭日、たとえば聖人にまつわる祝日とかキリスト教の祭日、収穫祭、結婚式などは村人たちには無上の楽しみである。万聖節(十一月一日)から1週間後の朝、おばあさんは子供たちを起こして、聖マルティンが白い馬に乗ってやって来たよ、と告げる。子供たちが飛び起きて窓から外を見ると、一面の雪景色である。聖マルティンの日は、子供たちに橇乗りの楽しみを持って来てくれたのであった。
 村では楽しいことばかりが起こるのではない。とりわけヴィトルカという娘の話は、哀れで物悲しい。彼女は村でも評判の美しい娘であったが、戦争の影響で村に駐屯していた猟兵部隊の兵士の一人に目をつけられ、つけまわされるようになる。この陰気な兵士にあとをつけまわされるようになってから、ヴィトルカは苦しみ悩むようになり、その苦しみから逃れるために隣村の青年と婚約する。その後も陰気くさい兵士は、ヴィトルカをつけまわし、ある日彼女は《クローバ畑に行け、クローバ畑に行け!》という言葉が耳の中で囁くのに誘われて、クローバ畑に出かけ、その男に会う。    
男は彼女に向かって「きみを愛している。きみはぼくの最上の幸福であり、天国だ」と言う。そのうち兵士たちは村から撤退することになるが、ヴィトルカは病床に伏すようになる。そしてある日、まるで兵士の後を追って家出したかのように、失踪して姿を消す。彼女は森の洞穴で、ボロボロの服を着て、気が狂った森の獣のように暮らしているのが発見されるが、悲惨な運命によって死を遂げることになる。
 十四年という兵役がもたらす悲運と不幸。クリストラとミーラは婚約した仲だったが、ミーラが軍隊に行くことが決まり、二人は悲しさのあまり泣き崩れる。当時の兵役は十四年という長い期間にわたるもので、そのために多くの愛し合う者たちを悲嘆のどん底におとしいれたのであった。しかしクリストラとミーラの場合は、公爵夫人の尽力が功を奏し、ミーラは兵役を免れて二人は無事結婚式を挙げることができたのである。
 この物語には、森番や粉屋や子沢山の貧しい手廻しオルガン弾き(この一家は食べる物に不自由してネコやリスやカラスも食べている)も登場するが、とりわけ森番は話が上手で、経験豊かな彼が語る話には深い味わいがあって、物語に独特の奥行きと幅を与えている。
 おばあさんが公爵夫人の招待で孫たちを連れて館を訪問する場面では、館の召使いや小間使いや部屋係たちの少し偉ぶった態度が、谷間の村人たちとの間にある身分的な差別を感じさせる。また、この物語ではチェコ語しか話せない村の人々が大多数であるのに対し、プロシェク夫妻のように夫がオーストリア生まれのドイツ人である場合もあり、ドイツ語が理解できる人間も少数ながら存在するという社会環境が描かれている。おばあさんはドイツで長く暮した経験がありながら、根っからのチェコ人で、チェコ語を愛し、孫たちにも常にチェコ語で話しかける。孫のバルンカも熱愛する父親の影響でドイツ語をよく理解するが、母親のプロシュコヴァー夫人のように完全にドイツ化することもなく、故国やチェコ語を心から愛している。
 チェコが当時はオーストリアハプスブルク帝国)に所属していたことを考えれば、ドイツ語は支配者の言語であるが、村人たちにとっては日常のコミュニケーション手段はあくまでチェコ語である。表にあからさまな形では出てこないが、人間がどの言語を自分の母語として選ぶかという問題は、中欧のようにさまざまな国々が隣り合う地域では、実は極めて重要な意味を含んでいるのである。この物語は、一見牧歌的・田園詩的な内容でありながらも、そうした重い問題も潜在的なテーマとなっているような気がする。(『おばあさん』が発表されたのは、一八五五年である。)


 次に掲げるのは、筆者が心を打たれた感想文です。

■「おばあさん」 岩波少年文庫(2008年11月読了)★★★★★
シレジアとの境にある山村に住んでいるおばあさん。息子が1人と娘が2人いるのですが、3人とも既に独立しており、おばあさんはばあやのベトカと2人で小さな家に何不自由なく暮らしていました。おばあさんにとって村人たちはみな兄弟姉妹であり、村人たちにとっておばあさんは、お母さんであり相談相手なのです。ところがある日、ウィーンにいる上の娘から手紙が舞い込みます。その手紙には、娘の夫が仕える公爵夫人がおばあさんの住む山村の近くに大きな領地を持っており、一家でそこに移ることになっているため、おばあさんも一緒に住んで欲しい書かれていました。おばあさんは迷った挙句、結局そこに移ることを決意します。(「BABICKA」栗栖継訳)
チェコの近代小説の基礎を作ったと言われるボジェナ・ネムツォヴァが、チェコオーストリアの属国だった100年前に書いた作品。チェコでは最も愛読されている作品であり、チェコ人でこの本を知らない人はいないとまで言われる作品なのだそうです。ネムツォヴァはこの作品に出てくるバラルカ。細かい部分は色々と変えられおり、おばあさん像も実際よりもさらに理想化されているとはいえ、この作品の主人公はネムツォヴァの本当のおばあさん。
物語は全編おばあさんの物語となっています。嫁いだ娘の家に住むようになり、忙しい娘に代わって家の中をやりくりするおばあさん。孫たちには沢山の物語を語り聞かせ、孫たちはその物語の中から人間として生きていく上で大切なことを自然に学んでいきます。この作品に書かれていることは特別なことではなく、物語そのものにもそれほど起伏はなく、ごくごく平凡な日々の情景の描写の方が断然多いのです。しかしその淡々と描かれる日々がとても味わい深いものですし、ここに描かれているチェコの農村風景もとても素敵。
それでも一番印象に残ったのは、戦争中に夫のイルジーを失ったおばあさんが3人の子供たちを連れて苦労して故郷に帰ったのは、子供たちがチェコ語を失わないようにするため、という部分でした。プロシア王に留まることを勧められ、子供たちに立派な教育を約束されながらも、おばあさんは故郷に帰ることを選ぶのです。それは、子供たちがチェコ語を失わないようにするため。国境を越えれば他国というヨーロッパにおいて祖国や母国語というのは、日本人の想像もつかないほど、いつ失ってもおかしくないという危険に晒されているものなのでしょうね。一度戦乱の渦に巻き込まれれば、国境の線など簡単に書き換えられ、国の名前が変わったりするのですから。
この作品は、カフカカレル・チャペックにも影響を与えているのだそうです。しかし私としてはむし、この淡々とした語り口に、同時代の作家・シュティフターを思い出しました。オーストリアの作家と思い込んでいたシュティフターですが、調べてみると生まれはチェコ。彼らが生きていた頃のチェコは、オーストリアの属国だったのですね。
チェコ人ならたいてい読んでいるらしい国民的文学作品だそうで、カフカにも影響を与えたそうな。住み慣れた所を離れ娘と暮らすことになったおばあさん。自分の習慣を変えないおばあさんだけれど、物珍しさが逆に孫たちの心をとらえる。結構な長さは単調なようでそうでもなく、チェコの風景や生活ぶりに加えて、情深い優しさで遠慮なくものを言うおばあさんの周囲との交流や昔話、狂女ヴィクトリカの話など面白い。戦争の暗い影響も伝わってきながら、しみじみ善き物語という作品だった。


 小説『おばあさん』(1855)は、チェコの少年少女の愛読書です。これは作家のおばあさんがモデルで、登場人物もほとんど実在した人々です。
 女流作家ボジェナ・ニエムツォヴァーは、42年の短い生涯に童話や小説等数多くの作品を遺していますが、中でもこの「おばあさん」は珠玉の一本です。作家は、少女時代のなつかしいおばあさんとの生活に思いを馳せ、ボヘミア大自然を背景に人間の営みの美しさを格調高く描いています。当時彼女は夫を失い、ジャガイモも買えないほどの極貧の中でこの小説を書きました。しかし、作品には苦境の圧迫など片鱗もみられず、逆に生きることの素晴らしさを称えた、ヒューマニズムあふれる作品に仕上がっています。絶望の中で彼女は小さな谷間の、今は亡き愛しいおばあさんとの生活へ逃避しました。少女の頃の喜びに溢れた谷間の思い出、ボヘミアの森や村の人々のことなど思いは尽きません。知恵の光に溢れるおばあさん、謙虚に生きる人々…。
 本講座ではこの本のドイツ語訳を読み、チェコの文化背景や習俗等も紹介したいと思います