フランツ・カフカ:「オドラデク」補遺

 カフカの「オドラデク」について、もう少し補足しておきたいと思い(余計なことかもしれないが)筆を執った。『家父の気がかり』という作品は、ある評者によって、「カフカ文学の起源について(ある意味では終着点について)の謎を解く作品と見る視点を確保できるのではないか」という極めて刺激的な読み方がなされている。また、カフカ文学研究者のあまりに数多き解釈は、解釈を解釈者自身の恣意的な思弁に引き寄せすぎ、結局はカフカの創作意図の不可知部分を、カフカの生涯や時代の不可知性に帰することに基づく、とも述べている。カフカのわずか2頁足らずの短編『家父の気がかり』が収録されている『村医者』という作品集は、カフカが生前に出版に同意したわずか数冊の中の一冊であるが、カフカが肺結核で療養していたウィーン近郊のキアリングのサナトリウムでその生涯を閉じる7年前の1917年に出版されたものである。
 カフカフロイトの心理学の講演会に参加したようであるが、すでに他の所でも述べたように、カフカフロイト精神分析的理論を敬遠し拒否したのである。一説によれば、カフカ自身の<個人的な症例>があまりにフロイトの理論に適合したからだと言われる。
 ある時ジークムント・フロイトは、彼の孫が紐の先に結えつけた糸巻きをベッドから放り投げて    <fort!>(いない)と叫び、次に紐を手繰り寄せて糸巻きをベッドに引き上げ、<da!>(いた)と大声をあげながら遊んでいる様子を観察していた。
 フロイトは、このような幼児の無償ともいえる遊戯を、母親の不在を補償する象徴的行動として解釈した。精神分析的にいささか堅苦しい表現をすれば、幼児と母親との緊密な結びつきと幼児の母親への全的な依存とは、幼児の完璧な自己同一性(アイデンティティ)を成立させる根拠であるが、それが母親の不在によって毀損された場合、幼児は遊戯行為によって毀損された自己同一性を疑似的に補償する(取り戻す)のである。これが幼児の遊戯行為の象徴的な意味である。フロイトの<補償説>によれば、幼児が糸巻きをベッドの外に投げ捨て、再び紐を手繰って視界から消え失せた糸巻きを取り戻すことで、母親不在の世界と母親の存在する世界をともに疑似的に創造するのである。これが幼児の遊戯空間で営まれている<物語>の象徴的意味なのである。
 心理学者のフロイトにとって、幼児が放り投げたり引き戻したりする糸巻きそのものは関心事ではない。糸巻きのかわりに、履物や人形であっても構わなかった。つまりフロイトにとっては、幼児の遊戯行動をどのように象徴的に解釈するかが問題であったのである。一方、カフカにとっては事物のようでもあり、生き物のようでもあり、人間のようでもある糸巻きそのものが関心事であった。糸巻きに覚える切ないような不思議な愛情、自分の死後、糸巻きが辿るであろう運命こそが問題であった。
 「このオドラデクは、屋根裏に居たかと思えば階段に、廊下にいたかと思えば玄関に、という具合で、次々とその居場所を変えるのである。そして何ヶ月も居所不明のこともある。それはおそらく他所の家に移り棲んでいるいるのである。それでもやがて眼に見えない糸に手繰り寄せられるように、わが家に戻ってくる。」(カフカ『家父の憂慮』/中尾光延訳、「カフカ詩学フロイトの糸巻き、糸巻きオドラデク―」、奈良女子大学文学部研究教育年報第2号所収、より引用)

 この「オドラデク」とは何を象徴しているのであろうか。一つの解釈を紹介しておく。
 「これで明瞭になるのは、カフカが普遍的な人間悲劇と並んで、特に彼の不幸な民族の苦悩を描いているということだ。故郷のない、幽霊のようなユダヤ民族の苦悩、形体も肉体もない単なる群衆の苦悩、それをカフカは描いている、彼以外のだれにも見られない仕方で。『ユダヤ人』という言葉が、彼の本のどれにも現われることなしに、描いているのだ。」《マックス・ブロート》(城山良彦訳による)

 最後に、心に不思議な残響をとどめるカフカのこの掌編の結末部分を、純粋でいささかも奇をてらうことのないカフカ自身のドイツ語文から引用しておこう。
Vergeblich frage ich mich, was mit ihm geschehen wird. Kann er denn sterben?
Alles, was stirbt, hat vorher eine Art Ziel, eine Art Tätigkeit gehabt und daran hat es sich zerrieben; das trifft bei Odradek nicht zu. Sollte er also einstmals etwa noch vor den Füßen meiner Kinder und Kindeskinder mit nachschleifendem Zwirnsfaden die Treppe hinunnter-
kollern? Er schadet ja offenbar niemandem; aber die Vorstellung, daß er mich auch noch überleben sollte, ist mir eine fast schmerzliche.