小説の一人称形式の語りの特徴(1)

  「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない」「物語の中に、必然性がない小道具は持ち出すなということだ」。 「チェーホフの銃」とは、劇作家アントン・チェーホフが、ドラマの原理についての換喩を要約した名言で、「物語の前段で登場させた拳銃は、後段で発砲されなければならない」というものである。逆に言えば、伏線にならない事柄を登場させてはならない、というドラマツルギーの基本原則の話である。
 これをさらに言い換えると、「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すな」ということになる。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことを、チェーホフ自身も好んだ。ドラマツルギーの基本原則に関するチェーホフの名言は、単に演劇だけでなく小説にも他のジャンルにも通用する美学であると思う。
 最近、村上春樹の『ノルウェイの森』を読了したけれども、率直な印象として、全編やたらと小道具ばかり多すぎて、物語の骨格となる筋やテーマが明瞭に浮かび上がってこない焦燥感に悩まされた。一人称の「語り手」でもあり「聞き手(語られ手)」でもある主人公と登場人物たちの軽やかでユーモアと皮肉を交えた会話のやり取りは面白く愉快でさえあるが、反面、無くもがなの小道具(セックス描写も含まれる)がやたらと多すぎる印象は否めない。
 村上春樹氏は、翻訳家としても見事な力量をもっているので、ここで視点を変えて、彼の翻訳の仕事を取り上げながら、彼自身の作家としての側面を眺めるのも悪くないかもしれない。

 唐突かもしれないが、プルーストの『失われた時を求めて』の語りを考えてみよう。
 ポール・リクールは、『失われた時を求めて』を、探求を一つの焦点とし、啓示の訪れをもう一つの焦点とする楕円として思い描くべきであると述べている。彼は、この二つの焦点のあいだの関係に、『失われた時を求めて』を時間についての話として捉える根拠を見ている。しかし筆者は、こうした平面幾何学的な表象によってではなく、物語の最後の場面に現われる成長する竹馬のイメージが象徴するように、「失われた時」と「見出された時」を垂直軸に延びる時間形象として立体幾何学的に捉えたい。竹馬の頂上に立って、下方に闇のように広がる失われた過去をのぞきこんでいるのが語りの現在における話者である。
 『見出された時』が『スワン家の方へ』と同じ時期に書かれたことを、われわれは忘れるべきではない。つまり、『失われた時を求めて』の作品群において、始まりと終わりが最初に存在したのである。この始まりと終わりのあいだに引かれる補助線の網が、作品を構成する原理である。
 実を言えば、一人ひとりの読者は本を読んでいるときに、自分自身の読者なのだ。「作品は、それがなければ見えなかった読者自身の内部のものをはっきりと識別させるために、作家が読者に提供する一種の光学器械にすぎない」(鈴木道彦訳)。
 作品の前半において(少なくとも「見出された時」に至るまでは)、語り手=話者は常に主人公である「私」に先行する存在である。語り手である「私」と語られる存在である「私」とは、同一性の次元にはない。むしろ互いに隔たった存在、別人に近い存在であるといってもよい。語り手は、後ろ向きに過去の「私」を振り返りながら、「私」について語る。「語る私」と「語られる私」の関係は、単に経過した時間的距離によって隔てられた一義的な関係にあるわけではなく、曖昧で多義的な関係にあるといえよう。
 「語る私」と「語られる私」という図式が成り立つのは、物語内容の自伝的性格が明確な場合に限られる。プルーストの場合、両者のフィクション的特徴が顕著であるように思われる。プルーストの「私」は、「語り手」であると同時に、「主人公(マルセル)」であったり、両者の混合であったり、無名の存在であったりする。それは一義的な自己同一性(自我)でくくられる存在ではなく、村上春樹流に言えば、一種の「仮説システム」という構造を持っている。
 村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という作品において、<you>という存在、つまり語りかけられる存在(「語りかけられ手」)をどう捉えるかによって、訳出の仕方、訳文の文体が変わってくるという点で、you は作品のキーポイントをなしている。you は「語りかけられ手」であると同時に、自分を映し出す鏡としての機能ももっている。言い換えれば、you は自分自身の純粋な投影、オルターエゴ(もう一つの自我)と考えることもできる。

 (以下は補足的な記述である。)
 繰り返しになるが、マルセル・プルーストエクリチュールにおける語り手「私」というものを考えてみると、それは自我という一義的な自己同一性でくくられる存在ではなく、「語り手」であると同時に「主人公」であったり、両者の混合であったり、あるいは曖昧で無定形な存在であったりする。実はこうした流動的な遠近法こそは、プルーストの小説『失われた時を求めて』の語りを特徴づける詩学ではないだろうか。文芸理論家のヴォルフガング・カイザーも言うように、小説の中の「私」という語り手は、決して作中人物の直線的な延長ではなく、そこには、もっと多くの複雑なもの、曲折したものが潜み隠れている。
 村上春樹氏の『ノルウェイの森』は、評価をめぐって極端な賛否両論に分かれるが、「語り手」であり「聞き手」でもある主人公「ワタナベ」は、いわば「純粋仮説」として設定された人物であり、自我意識というくびきにとらわれない、その融通無碍な有り様が、新たな小説世界を切り開いたともいえるのではなかろうか。

 古い世代に属する筆者にとって忘れられないのは、大江健三郎の一人称小説『万延元年のフットボール』における「語り」である。主人公の《僕》は、「「語る私」ではあっても、「体験する私」ではありえない。むしろ分身的な行動者である弟の鷹四が、それを代行している。《僕》は、ひたすら「語る私」という役割に専念しているかに見える。《僕》すなわち密三郎の語りは、じっと森の奥深い声に耳を澄まし、それを聞き書きしているような聴覚的なものに思える。《僕》の研ぎすまされた聴覚は、喬木林が風に唸り、それらが幼時の記憶にある谷間の老人たちの顔のように、独自の個性的な叫び声をあげているのを聞き取る。もう一つ絶妙な聴覚的な効果をもたらすものとして、リフレインのように繰り返される言葉がある。それは7章「念仏踊りの復興」で、翻訳の仕事に没頭している《僕》の耳を刺しつらぬく「−−ヒトが流れるが!」という叫び声である。この叫び声は、谷間の生活者にとって死に直結する危機を意味する。この身体の芯まで響くような叫びは、《僕》に川を流れてゆく犠牲者を追っての「疾走」の記憶と、「あたかも僕が谷間の共同体の一員であるかのような反射運動」を呼び起こす。この感覚的な記憶のよみがえりと反射運動は、およそ谷間の人々の生活には関わりがなくなったと感じている《僕》が、実は谷間に根をもつ人間であることを示す徴表であるのだ。
 松江で暮らしていた頃、この部分の描写を読んだ時、それは筆者にとって郷愁の念とないまぜになった衝撃的ともいえる経験であった。