ジョイスの『死者たち』における描写の方法

 ジョイスの『死者たち』の方法は、語り手の直接の介入によらない描写、すなわち語り手の解説とか論評を含まない描写の方法である。
 アレン・テイトの評言を引用してみる。
 「実際、物語の始めから終わりまで、われわれは全く何も語られない。われわれはすべてを見せられる。例えば、物語の環境は世紀の変わり目のダブリンの、地域的で、中産階級的で、<洗練された社会>であると語られることはない。またゲイブリュエルは、その社会の感情的不毛を表しているということも語られない(彼の妻グレッタの<農民の>感情的豊かさとは対照的に)。……こういったすべてのことが劇的に表現されているのをわれわれは見る。すべてが活性化されているのである。外からの全知の視点から与えられるものは何もない。……ゲイブリュエルは簡潔に描写されている。しかしそれはジョイスによる描写ではない。われわれはリリーが見ているように、また彼女がジョイスのように状況のすべてを意のままに支配する力を持っている場合に彼を見るように、彼を見るのである。これが実のところ『死者たち』の方法なのである。この時点からずっと、われわれはゲイブリュエルの肉体的視覚から決して遠ざかることはない。それでもわれわれは常に彼の肉体的な目を通して、彼にはとても得ることができないような価値や洞察を見ているのである。環境の持つ意味、ゲイブリュエルの妻に対する満ち足りた気持ち、彼女が心に抱いている恋人マイケル・ヒュアリーのロマンティックなイメージは、ジェイムズ以前の時代には、作者の直接の介入による解説と論評としてわれわれに提示されていたであろう。従ってこの物語は活気のないものになっていたことであろう。」(ウェイン・C・ブース『フィクションの修辞学』{米本・服部・渡辺訳}、書肆風の薔薇、1991年、276頁参照)
 次に『死者たち』の一場面を引用してみよう。
 雪がちらちら降るダブリンの町、中年に近い大学教授ゲイブリュエル・コンロイは、叔母(モーカン姉妹)の家で催される舞踏会に妻グレッタを伴って出席するが、ダンスの後、賑やかな宴会に移り、ゲイブリュエルは例によって丸焼きの鵞鳥の肉を切り分ける役を与えられる。芝居や歌劇や歌手の話題に席も大いに盛り上がり、いよいよゲイブリュエルのスピーチの時がやって来る。彼はモーカン姉妹の心のこもったもてなしに感謝し、その温かいもてなしの心こそアイルランドの伝統の最も誇るべき美徳だと称える。ゲイブリュエルの真情溢るる演説の言葉に、ケイト叔母の眼に涙が浮かぶ。パーティーが終わり、ゲイブリュエルは帰途につく人々を見送り、玄関の暗がりで二階から下りてくる妻のグレッタを待っている。彼が踊り場に見たものは、なにか放心したようにじっと歌に聞き入っている妻グレッタの別人のような雰囲気であった。


 ゲイブリュエルは連中とともに玄関口へは出なかった。じっと階段を仰いだまま玄関の暗がりにいた。一人の女が最初の踊り場あたりに、それも影にひそみたたずんでいた。その姿は見えなかったが、影が白と黒に見せている彼女のスカートのテラコッタいろの鮭肉色(サーモンピンク)の縫い飾りがみとめられた。それは妻だった。彼女は手すりによりかかって、何かに聞きほれていた。ゲイブリュエルはその静けさに打たれて、自分もまた聞こうと耳をそばだてた。しかし、表の階段におこる笑い声と言いあいの騒音以外、ほとんど聞きとれなかった。ただピアノにひびくきれぎれの諧音と、男性の声が歌うきれぎれの音調と……
 彼は、玄関のうす暗がりにじっとたたずみ、その声が歌う歌曲(ふし)聞きとろうとしながら、下から妻の姿をながめた。彼女の姿態には、何かの象徴であるかのような、優雅さと神秘があった。階段の下で影にひそみたたずんで、はるかな音楽に聞き入っている女はいかるものの象徴であろうか、と彼は問うてみた。
              (ジョイス『死者たち』安藤一郎訳)


 ホテルに帰って、一方で妻を激しく求めながら、しかしいつもと違う妻の様子になにか踏み込めないものを感じているゲイブリュエルは、妻から彼女がまだゴールウェイの田舎に住んでいた娘時代、大きな黒い瞳をした虚弱な少年に真剣に愛されたことがあったと告白される。パーティーでグレッタが聞きほれていた「オーリムの乙女」という曲がきっかけになって、彼女はこの若者のことを想い起こしたのである。二人で田舎の野原を散歩したとき、彼が澄んだ声でよくその歌を歌ってくれた。グレッタがダブリンの修道院に入ることになりゴールウェイを去る前日、少年は雨のなか病をおして別れを告げに来る。雨に濡れて死んでしまうからすぐ帰ってという彼女に、彼は「生きていたくない」と言う。彼女がダブリンに発った一週間後、少年マイケル・フュウリーは十七歳の若さで死ぬ。「あたしのために死んだんだと思うわ」という妻の言葉が深く胸に沁みたゲイブリュエルは、彼女がここ恋をこれまでずっと大事に心の中に秘めてきたこと、それにひきかえ夫たる自分が彼女の生涯において、どんなにつまらない役割を演じてきたかを思い知る。彼女の寝顔を見つめるうちに、不思議な憐憫の情にとらえられた彼は、その夜のさまざまな出来事を思い浮かべながら、生きとし生けるものすべてがいつかは行くことになる世界、すなわち死せる人々のおびただしい群れが住む彼岸の世界へと想いを馳せる。折しも窓の外では、雪がすべてのものの上に、アイルランドじゅうに、生けるもの死せるものすべての上に降りしきっている。
 ここでは確かにすべてはゲイブリュエルの眼で眺められているといってよい。その意味でわれわれは、アレン・テイトが言うように、ゲイブリュエルの肉体的視覚から一歩も踏み出ることはできない。しかしそれにもかかわらず、われわれは、ゲイブリュエルの感覚を通して、彼が実際に見たり聞いたり感じたりできる以上のことを認識させられているのだという印象から逃れることができない。われわれが感ずるそのような印象は、やはりスコールズが指摘するように、ジョイス流の腹話術師的な効果、すなわち作者が登場人物の声で語りながら、その人物を第三者として眺め、その人物の知覚しうることしか語らず、しかもそれを利用して、見えない語り手の意見をも伝えてしまうという精妙極まりない語り方に由来するものである。(ロバート・スコールズ記号論のたのしみ』<冨山太佳夫訳>、岩波書店、1985年、185頁参照。)

 ジョイスの著作においては、アイルランドでの経験がその根本的な構成要素となっており、多かれ少なかれ、すべての作品の舞台や主題の多くがそれらの経験からもたらされている。短編集『ダブリン市民』は、ダブリン社会の停滞と麻痺の鋭い分析であるといってもよい。この短編集には、ジョイス文学のキーワードともいうべき「エピファニー」という現象が導入されているが、これはジョイスによって特有の意味を与えられた語で、物事を観察するうちにその事物の「魂」が突如として意識の中に立ち現われ、その本質が露呈されることを意味している。
 短編集の最後に置かれた最も有名な『死者たち』は、1987年に映画化され、ジョン・ヒューストンの最後の監督作品となった。