カフカ再考

  「『田舎医者』のような作品なら、ぼくも一時的な満足を覚えることができる……だが幸福は、ぼくが世界を純粋なもの、真実なもの、不変なものに高めるときにのみ得られるのだ」(『日記』1917年9月25日)。

 『田舎医者』-----脱構築された物語世界 

 『田舎医者(村の医者)』は、ある冬の夜、十マイル離れた家で待っている患者のもとへ往診に行く医師の物語である。出来事は、思いもかけない仕方で起こる。不可思議なこと、驚くべきことが、まるで自明のことのように起きる。それらの出来事は深く吟味されずに、そのまま受け入れられる。往診のための馬がないので、女中のローザが村中を走り回って探すが、馬を貸してくれる人は見つからない。そんなとき、医師である私が腹立ちまぎれに豚小屋の戸を蹴ると、中から正体不明の馬丁が現われ、馬二頭を提供してくれる。長年使わずにおいた豚小屋から思いがけず馬丁と二頭の馬が現われると、女中は「自分の家にどんな結構な物がしまわれているか、わからないものね」と冗談めかして言い、思わず私は彼女と一緒に声をたてて笑う。突然出現した得体の知れない馬丁といい、二頭の馬といい、夢の中の出来事のように奇妙なのだが、とりあえずそれは笑える状況なのである。この笑いは。物語の空間に気楽な解放感をもたらす。しかしそれも束の間、馬丁が女中を抱きすくめ、自分の顔を女の顔に押しつける。「女中の頬に二列の歯型が赤く押しつけられた」その瞬間から、語りの時制は現在に転調する。それまで過去形で書かれてきた語りが、一転して現在時制に変わるのである。そして馬はあっという間に、私を患者の家へ運んでくれる。後に残った馬丁がローザを手込めにしていやしないかと案じながら、私は患者の若者の診療にあたる。……ぎっしり文字が詰まったカフカの『田舎医者』を原文で読むと、文章は切れ目なく続いており、この作品では、すべての出来事が、いわば一つの段落の中に入っていることが一目瞭然である。次々と起こるいろいろな出来事が、老医師にとっては一瞬の、一続きの出来事であったのだ。作品から伝わる切迫感から、カフカはこの物語を一息で書き上げたかったことが納得される。
 話は前後するが、馬丁が私(老医師)に向かって、「一緒には行きませんぜ、ローザのところに残りますぜ」というのを聞いて、ローザは不可避の運命を予感したかのように家の中に逃げ込み、錠を下ろす。馬丁の突撃で家のドアが砕け散る耳にしたと思う間もなく、五感に突き入るような轟音に耳も眼もふさがれ、私はあっという間に患者の家に到着する。この物語では、そもそも女中だけが固有名詞で呼ばれている。しかし物語の出だしでは、彼女はただ女中と呼ばれているだけである。どこの馬の骨とも知れぬ馬丁が、ローザを名指しした時、読者は初めて女中の名前を知らされる。
 馬丁のローザへの欲望がむき出しになったときから、医者(私)は初めてローザを、その女としての存在を意識するようになる。若者を診察している間も、馬丁に犯されたローザのことが彼の頭から離れない。
 「先生、死なせてください」と意表をつく言葉を若者はささやくが、私は医者としてまともな診察もできず、ただ手を拱くばかりである。この患者は、本当は健康なのだ、ベッドから蹴り出してしまうのが一番いいのだ、という結論に達して、私が帰り支度をしかけると、窓から首を伸ばしてきた二頭の馬が、私を励ますかのように、いななく------それは診察を容易にしてくれるための神の配慮なのだ------。そして事実、私は若者の右の脇腹に世にも不思議な傷口を発見する。それにしてもこの二頭の馬は、いわば昔話に登場する救助者(helfende Tiere)の機能を果たしているかのようだ。こうしてわれわれは、プロップ流の昔話の分析へと誘われるが、結局それも錯覚にすぎない。
 若者の傷口の描写は、「薔薇色の」(rosa)という形容詞で始まるが、それは女中のローザ(Rosa)を連想させる。さらに描写は、傷の奥深くに棲む「薔薇色の」
(rosig)体をした蛆虫の生態をとらえるが、ここには明らかに言葉遊びの要素が感じ取れる。この脇腹に発見された花(Blume)のような傷は、若者の傷であると同時に、私(語り手)自身の傷であり、私につけられた標なのである。薔薇色の傷の中心部は黒ずみ、まわりにいくほど淡く、凝固した血が粒々になって露天掘りの炭鉱のように口を開けている。近くから見ると、傷はさらに惨憺たる様相を呈する。小指ほどの蛆虫が何匹も傷の内側にはりついて、小さな白い頭と無数の細い脚をうごめかして、明るい方へ這い出ようとしている。「かわいそうな若者よ、君は助からない。私は君の大きな傷を見つけた。脇腹のこの花のために君は滅びるのだ」という言葉が、あたかも私自身に向けられた独白のように響く。連想が連想を生むかのようにして起こったこの世ならぬ出来事の連続は、ここに至って薔薇色の花(傷)という幻想的で、しかも不思議な現実感のある形象へと収束し、物語の流れを一瞬静止させるかに見える。しかし傷口は、豊かなイメージを内包しながら、「揺れ動く物語」(カフカ自身の言葉)を再び始動させ、焦点を定めぬ方向へと向かわせる。
 若者は、「美しい傷をもって、僕はこの世にうまれてきた。これが僕の持参金の全てだった」と言う。傷は私自身への標づけを意味するものでもあり、したがって傷を癒すことは不可能なのである。
 突然小学生のコーラスが現われて、歌を歌う。
   服を脱がせろ そうすりゃ彼もなおしてくれる
   なおさぬなら 殺してしまえ
   ただの医者じゃないか ただの医者じゃないか
 自らの傷でもあるがゆえに、若者の傷を癒しえない私は、村人や家族の者たちによって衣服をはぎとられる。私は裸にされてベッドへ運ばれ、若者の傷口をふさぐ恰好で添い寝をさせられる。医者としての権威を失墜した私は、今や丸裸の人間として、若者と同じベッドの中に入り、いわば対等の人間同士として問答をかわす。この裸になった者同士の間で交わされる哲学問答のような対話は、生真面目であればあるほどほとんど滑稽に思えてくる。先刻とは打って変わって生に執着する若者に対して、「君の欠点は、大局を見る眼がないことだ」と、箴言とも気休めともつかない言葉を吐いて若者を諭すが、自信のない医者の単なる強がりのようにも聞こえる。
 私がやっとのことで患者の部屋から脱出し飛び乗った馬は、往路の疾走とは裏腹に遅々として進まない。馬丁に思いのままにされているローザのことを気にしながら、帰宅を急ごうとする私の意に反して、相変わらずのろのろと歩む馬たちは、実は昔話の救助者どころではなく、今やその性悪な本性を剥き出しにしたのだ。こうして物語の反メールヒェン的構造があらわになる。
 「裸のまま、この不幸極まりない世紀の寒気にさらされて、この世の馬車に乗り、この世ならぬ馬に牽かれて、老人の私はさ迷い歩く。------だまされた!だまされた!間違って鳴らされた夜間用呼び鈴にひとたび誘い出されれば------二度と取り返しはつかない。」
 この殊更に陳腐とも見える幕切れの叙述は、カフカの「揺れ動く物語」に眩暈を覚えた読者をむしろ解放するものであろう。

 カフカは、物語るという行為には二重性が含まれていることを、極めて明確に認識していた。なぜなら物語るという行為において、すでに自我は書く人と書かれた事柄に、つまり物語ることの主体と客体に分裂するからである。カフカにとって、書くことの真実は、なによりも書く人と書くことの一体性の中にある。内的な真実を純粋に表現するというカフカの理想は、書く人と書くことの一致によって、換言すれば作者とテクストの一致のなかで実現されるのである。その意味で、カフカの文学の独自な真実性は、フリードリヒ・バイスナーが言うように、「一次元的な物語のパースペクティヴ」に基づいているといえよう。
 『田舎医者』の語り手は、医者である「私」であるが、しかしこの語り手からは、一人称形式の顕著な特質である「物語り行為」というものは、その痕跡すらも感じられない。むしろ語り手というよりは、生成し疾駆する物語を追いかけ、それを書きとめる人、記録する人という感じである。
 『田舎医者』の中で、女中のローザが馬丁に抱きすくめられる一瞬から、物語の時制は過去から現在時制に切り換わるが、この時制の転換は、単に出来事をより生き生きと現前化するための叙事的機能を意味するのではなく、行方定めぬ物語の歩みに流動性と浮動性とを与えるものである。この転調によって、書き手はますます「揺れ動く物語」の流れに自由に身をゆだね、それを記録することができるのである。この現在時制で書かれた部分は、全体を私の内的独白と見ることもできる。私の脳裏に浮かんだ幻想あるいは夢想と考えることも可能である。
 この物語において、現実とはいったい何なのであろうか。十マイル離れた村への往診は、本当に現実に負わされた任務だったのだろうか。豚小屋から不意に現れる馬丁にしても、二頭の馬にしてもこの世ならぬ存在である。もしかしてローザの存在だけが、私にとって唯一の現実だったのではないか。ここに描かれたいわゆる現実というものは、なにひとつ確実な像を結ぶことなく、拡散してゆく。テクストを読み進むにつれて感ずる眩暈にも似た「揺らぎ」のようなもの、これが物語の巧まざる詐術なのである。
 マルコム・パスリは、カフカの創作方法を「書きながらしだいに物語を作って行く」流儀であると述べている。パスリは、さらに書き方に関してカフカが願わしいと考えていた三つの事柄として、「自発性」「流動性」「開かれたもの、先入観のないもの」を挙げている。第三の事柄に関しては、カフカ自身の次の言葉のなかでも明確に表現されている。「人は、作中人物たちがどのように発展するかを知ることなしに、暗いトンネルの中でのように書かねばならない」。
 カフカにとって、物語は書くという行為によって、いわば「遊歩しつつ」連続的にテクストとして成立するものであり、可能な限り「一息に」、できるだけ早く終結させねばならないものであった。『田舎医者』は、あらゆる点から見て、カフカが理想とする創作作法から生まれた作品のように思われるが、しかしカフカ自身には一時的な満足をもたらしたにすぎないことは、すでに冒頭で引用した彼の日記の記述から明らかである。